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民主主義 亡国論

民主主義は大日本帝国を滅ぼし、早晩、日本という国をも滅ぼす。

主義とは判断基準頭の中である

「民主主義の世の中では…」という文脈が、
明治維新以降の日本では猛威を振るっている。

だが、残念ながら、
民主主義とは頭の中である。

日本人はみんなして、時代をこえ、
民主主義という頭の中を、ずっと世の中だと勘違いしてきたのだ。
ここに日本人が迷走し続けている原因がある。

民主主義とは世の中ではなく頭の中である。

どういうことか?
説明しよう。

主義とは「判断基準」のことだ。

ここでは、
主義を優先主義と言い換えた方がよりわかりやすくなるだろう。

優先基準とは何かを優先する判断基準のことだ。

例えば、マンション優先主義の人は、一戸建てよりもマンションに優先して住みたがる。
例えば、資本優先主義の人は、ボランティアよりも金儲けを優先して行動しやがる。
例えば、イスラム原理主義の人々は、他の行動規範よりコーランの文言を強く優先する。

このように、優先主義とは判断基準であり、頭の中なのだ。



民主主義とは?

では、いわゆる民主主義とはどういう意味なのだろうか?
民主主義とは、民主優先主義だ。
民主を優先する主義である。
つまり、民主というものを優先する判断基準頭の中だ。

ここまでは先ほどの例に照らし合わせていいだろう。
では、次の問題は、
「何に対して民主を優先するのか?」となろう。

恐らくは、他の政治体制よりも民主を優先すると言いたいのではないだろうか。

専政、王政、寡頭政、くじ引き政治…。

これまで実在した他のどの政治体制よりも、民主を優先すると言いたいのではないだろうか。

他の政治体制よりも民主政治を優先する判断基準。

それが民主主義なのだろう。



民主主義とは民主政治を優先する頭の中である


ここまでの議論をまとめると小見出しのようになる。
民主優先主義とは、他の政治体制よりも民主政治を優先する判断基準にして頭の中。
これが民主主義の合理的かつ理に則った定義であり解釈だ。




この国は大日本帝国のはずなんだyo

民主主義とは、これまで実在した他の政治体制よりも民主政治を優先する判断基準である。

だがどうだろうか?

果たして、
こんなことをいちいち考えて、大衆は民主主義を使っているだろうか?
まず間違いなくこんなことを考えて使ってはいない。

みんながいっているから、民主主義みたいな、、的なのりで民主主義をわんさか使っている。
これは何も最近の若い衆を揶揄しているのではなく、明治維新以降この国はずっとこの調子である。(もし仮に、同じ国が存続しているとすればだが…)

なぜ、そう言い切れるかといえば、
少し切れる奴らがそれなりに打ち込めば、この滑稽な言葉の定義解釈はとっくの昔に修正されているからだ。

要は民主主義に関するあれやこれやはそんなに難しい話しではないのだ。

言葉の根源的な意味合いで日本人は躓いているのだ。

民主主義のシステムがおかしい、、
とかではない。

民主主義は多数派による専政になるからよくない、、
とかでもない。

民主主義が機能していない、、
とかでもない。


民主主義の意味合いを定義解釈する頭が機能していなかったのだ。

民主主義が何なのかを、定義解釈しないで、大日本帝国はこの150年間突っ走ってきた。
どこかで潰れたような気もするが、少なくとも1870年から1952年までこの場所に存在したのは大日本帝国である。
そして、特に大日本帝国が解散するという議会決定も報告もなされてはいない以上、大日本帝国が存続していると見るのが自然である。



大日本帝国はなぜ滅んだのか?

アメリカは凄いマジックを使った。
大日本帝国を凄い凄いきたねーマジックで消滅させた。
反則級とかではなく、剥き出しの反則である。
アメリカは国際法違反で戦争に負けるのを厭わず、大日本帝国をこの世界から消滅させた。
何だかこう書くとアメリカはすげえ英雄みたいだが、まあそれでもいいんじゃね、この際。

だが、そのアメリカの凄いマジックよりも、
それ以前に大日本帝国には破綻する大きな要因があった。

大日本帝国が破綻する大きな要因とは、「自分たちを定義できていなかった」ということに尽きる。


民主政治体制を標榜しながら、それを民主主義だと喧伝し続けた。
民主政治体制を標榜しながら、それを民主主義だと定義解釈して立ち止まってしまった。
自分たちの目指す政治と世の中を、よくわからないまま過ごしていた。
民主政治を希求しながら、民主主義を追いかけてしまった。
民主政治の世の中を希求しながら、民主主義という判断基準を追いかけてしまった。
頭の中と、世の中がごっちゃになったまま、まあいっか、で流してしまった。


大日本帝国の臣民は
自分たちを定義できていなかったのだ。

だから大日本帝国は滅んだ。
悲しいかな、大多数が滅んだことにすら気づいていない。
それくらいになるほど、自分たちを定義解釈できていなかった。

自分たちが滅びるためには、自分たちが何かを定義解釈しておかなければならないが、
自分たちを定義解釈できていなかったので、滅びたことにすら気づけなかったのだ。



なぜ第二の敗戦は繰り返されるのか?


オイルショック、
プラザ合意、
バブル崩壊、
リーマンショック、

ことあるごとに、「第二の敗戦」と形容されて喧伝される。

なぜだろうか?

これも大日本帝国が滅亡したことの延長線上で説明できそうだ。

我々は自分たちを定義解釈できていない。
民主主義という政治体制を、ずっと目指してしまっているぐらいの重症かつ慢性の患者だ。
ずっとずっと、民主主義という頭の中を、政治体制と間違って目指している。
これこそ、お花畑な頭の中である。

我々はいまだに自分たちを定義解釈できていない。
定義解釈できていない自分たちは滅ぶことがない。

我々は不死身である。

だから何度敗戦しようが平気の平佐だ。
したがって、容易に「第二の敗戦」というフレーズを用いることが出来る。
敗戦で国家を失ったことに気づけていないから「敗戦」を軽々しく用いる。

こうして、我々は幾度となく第二の敗戦を迎えることが出来るのだ。



民主主義とはお花畑な頭の中である

民主主義とは元来、民主優先主義の略語である。
民主優先主義とは、他の政治体制よりも民主政治を優先選択しようとする判断基準ないし価値観のことだ。
しかしながら、
現下日本を俯瞰するに、民主主義を民主政治と混同し用いるケースが目に余る。
なぜそうなるのかといえば、
少しばかり深く物事を考てやろうという姿勢を放棄しているためだ。

民主主義という頭の中が、民主政治という世の中とまぜこぜになっても、何も気づけない。
大日本帝国が突如として教科書表記から消えても、なんも気づけない。
そんな頭の中が民主優先主義にすら優先してしまっている。

だから、
だからこそ、
我々はつねに滅び続けることが出来るのだ。

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