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資本主義の誤ちと過ち

資本主義とは文字通り「資本を優先する主義」だ。
すなわち資本を優先する判断基準であり頭の中の様相である。

ところが資本主義は押し並べて「資本主義の世の中では」といった文脈にて用いられている。

○ 資本主義 = 判断基準であり、頭の中の様相

✖️資本主義 = 貨幣経済 = 世の中  

資本主義の誤ち


資本主義=世の中、という固定観念が大多数派の頭の中に刷り込まれて離れない。
ここに資本主義の誤ちがあるのだ。

「頭の中」と「世の中」の混同

資本主義を世の中として捉え続けたことで近現代人はたいへんな損失を被った。
本来、頭の中であるものを世の中だと誤用していたのだ。
小脳を笑納と混同して使い続けたようなもので、話しにならないほどの大失態だ。

近現代人は自分たちの判断基準たる資本主義の存在に気づかず、ここ150年を過ごしてきた。
資本主義と貨幣経済の違いを明確に定義区分することなく、フワッとした空気の中で2つをひたすらに混同させている。

結果、頭の中と世の中を静かに、だが確実に暴走させている。



資本主義と貨幣経済の混同

資本優先主義と貨幣経済は密接な関係がある。
資本優先主義とは資本金もうけを他の何よりも優先する判断基準。
資本優先主義の判断基準が大多数となって実現される世の中が貨幣経済だ。

資本主義 資本を優先させる判断基準頭の中 

貨幣経済 資本主義が大多数になることで実現する世の中 

資本優先主義と貨幣経済の関係


江戸はボランティア優先主義の人々が多数派であり、ボランティア経済が実現していた。
そこから明治維新を経て、
資本優先主義の判断基準を欧米列強から輸入し、この判断基準が多数派になった時、日本においてボランティア経済から貨幣経済への切り替えがなされた。

1870年、明治維新。

大和の国の人々は、
ボランティア優先主義の判断基準から、資本優先主義の判断基準へと判断基準を変遷させていった。
それまでは何よりもボランティア人助けを優先する判断基準だったものが、徐々に金儲けを優先する判断基準が大手を振るうようになっていく。
廃仏毀釈でカミを殺して相互扶助の精神を削ぎ、科学教育によってカミ殺しのダメ押しを行い、人々は無償で助け合うことをやめてしまった。
代わって貨幣取引によってお互いに必要とするものを補いあう貨幣経済が台頭して来る。

資本優先主義。
資本すなわち金儲けを優先する判断基準の持ち主はひたすらにカネを求め、この判断基準が多数派になった時、なにごともカネと対価でなされる貨幣経済が実現した。

ボランティアで回ってきた世の中からカネで回る世の中への相転移が生じたのだ。

江戸時代以前の日本
 人々の判断基準  世の中
ボランティア主義 ボランティア経済
     ↓明治維新
明治以降の日本
 人々の判断基準  世の中
 資本優先主義   貨幣経済

日本における、判断基準と世の中 それぞれの変遷



頭の中と世の中は違う


資本主義と貨幣経済は違う。
全く違う概念だ。
かたや資本主義は人々の頭の中にある判断基準を指す言葉である。
かたや貨幣経済は世の中が何によって秩序を保っているのかを示す言葉だ。

金儲けを最優先する判断基準資本優先主義の人々が集まることで、
貨幣を媒介として秩序が保たれる世の中貨幣経済が実現する。

このように、資本優先主義の頭の中によって貨幣経済の世の中が実現される。
だが資本優先主義と貨幣経済は全く違う概念なのだ。



資本主義と貨幣経済 3つのあやまち

ここまでで2つの資本主義をめぐるあやまちを指摘した。

①資本主義という頭の中を指すフレーズを世の中の様相だと誤用
②資本主義と貨幣経済を混同

①の誤ちによって、
自分の頭の中にあるものが世の中全般に当てはまると勘違いする人々が大勢産み落とされた。

②の過ちによって、
言葉の意味の再点検を行う姿勢が頭の中のみならず世の中から希薄になっていった。

①と②のあやまちによって、
言葉の意味がわからないまま、ただフワッと流されるまま用いる人間が横溢している。


だがこうした荒涼とした頭の中ばかりであるにも関わらず、
我々の世の中は相応以上の豊かさを維持している。

資本優先主義の判断基準によって実現した貨幣経済の世の中。
この貨幣経済の世の中は、大方の見方とは異なりとても偉大だからだ。



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