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フォロバ100% 亡国論

フォローしたら必ずフォローを返します。

そう謳ってフォロワー数を増やす。
フォロワー数増加の常套手段だ。
いわゆる「フォロバ100%」。
このメソッドには賛否両論ある。

おうどんさん…
ものすごく怒っておられる。
北斗神拳継承者の座からあぶれたジャギのような怪気炎。
孔明から女物の衣装を贈られて激憤する司馬懿仲達のようだ。
このままだと、おうどんさんはアト108日ぐらいで憤死しそうである。

そして、おうどんさんが完全主観だと前置きしてから述べている次のような見解。

「フォロバ100%の文章は軽い

あくまで筆者の意訳

これには「そうだよ!」と思わず膝を叩いた。
実はワタシも、フォロバ100%に違和感を感じる一人だ。

「怒り1000%」とまではいかないが、
「これもう見飽きたわ」とは思う。
「新しいのないん?もっとひねれよ」と強く思う。

色物はコミュニティーにいてくれて構わない。
搦手から攻めるやつがいたって問題ない。
ドン・キホーテはあった方がいい。


だが、
世の中が色物ばっかでどないすんねん(笑)

フォロバ100%が100%の世界

ゲイ、レズ・・・
全然いてくれたって構わない。
同性愛者がいても問題はない。
むしろ彼ら彼女らと話していると、異なる価値観に触れられて得るものが多い。
触発されて楽しい時間だ。

だが世の中が同性愛者ばかりになってはならない。
なぜなら人類が存続できないから。
文明に持続可能性がなくなるから。

これと同じ理屈だ。

世の中やコミュニティーが色物だらけになってはならない。
コミュニティーが存続できないから。

ここに「フォロバ100%が100%」の問題点がある。



「楽の射程=100年」/明治日本

人は易きに流れる。
易きとは楽だということ。

確かに楽が一番だ。
だが「楽の射程」が短くなりすぎてはいないだろうか。

明治維新の頃合いにおける日本は、
「楽の射程」が「100年」だった。

世の中が楽になるのは100年後。

そう覚悟して1870年当時の人々は臥薪嘗胆をしてくれた。
だからそれから100年後を生きる我々日本人は、こんなにも「楽」を謳歌していられるんだ。
明治の日本人は自分達世代が楽になることを捨てて、未来の日本人が楽になるため額に汗してくれた。
だから我々はSNSなんぞにうつつを抜かしておられるのだ。
これが「楽の射程100年」の効用だ。

このように文明というものは本来、努力者と果実受益者が異なるものである。
自分が頑張るのは、自分でない未来の誰かのため。
まだ見ぬ未来へのスルーパス。
これが持続可能性を要諦におく文明のあるべき姿。



「楽の射程=50cm」/令和日本

それに比べてフォロバ100%屋はなんやねん。

時間射程は間違いなく自分の生きている間。
もっと言えば自分世代どころか自分だけのため。
空間射程は多く見積もって50センチメートル。

「フォロバ100%」

自分へのスルーパス。
自分だけが楽をするため。
自分の今だけを楽にするため。

「半径50センチメートル現在」しか楽にしない魔法の杖。
しかもフォロワーが増えるという、本当にささやかでくだらない楽しさ。

それがフォロバ100%というメソッドだ。



トリックスターは努力を怠らない

トリックスターや道化師の類い色物、変わり種はいてくれると楽しい。
あの手この手で周りを楽しませてくれる。

「せこい」
「がめつい」
「銭ゲバ」
「胡散臭い」

手を変え品を変え、傍にいる多くを楽しませてくれる。
面白いから憎めないし、同じ手口は決して長く使わない。
だから周りも少し汚いところは多めに見る。

「楽しい」と「汚い」の交換取引バーターだ。

トリックスターが「楽しい」を差し出し、
我々はトリックスターの「少し汚い」を多めにみる。

見ていると滑稽で楽しいから、心が楽になるから、
トリックスターの半径50センチの楽を周りは許せるんだ。
やり方は少々汚いが、楽しさを世の中に提供するから許容されるんだ。

彼らトリックスターはたえず努力している。
次々と新基軸を生み出し、人々を楽しませる。
決して同じところにはとどまらず、常に新しい付加価値を生み出してくる。
ドン・キホーテは行くごとに新しい発見があり、新しい変化が必ずある。
吉本新喜劇は観るごとにセッコい新基軸があり、胡散臭い変化が必ずある。

だからトリックスター変わり種の胡散臭さを我々は寛容な気持ちで楽しむことができる。
むしろお金を払って見せてもらいたいとすら願う。



楽射程50cm * 努力0秒 = フォロバ100%

翻って、
フォロバ100%屋はどうだろうか。

もはや全く目新しさがない。
ひねりは皆無。
つまりは面白くない。
楽しくない。
傍はまるで楽にならない。

それでいて「せこい」。
それでいて「がめつい」。
それでいて「胡散臭い」。


トリックスターの条件は、
「楽しい」と「汚い」の交換取引バーターが出来る奴だった。
楽しさという付加価値を世の中にもたらせる奴だ。

フォロバ100%屋には「汚さ」きたなさと「怠惰」がたんまりある。
だが、楽しさは原則ゼロだ。

だから、その「汚さ」を多めに見る気にはならない。



胡散臭さのイノベーション

汚さや胡散臭さを自認しているのなら、変化し続けるべきだ。
腐った胡散臭さなんぞはいらない。
そんなもの、ただ不快なだけだ。
絶えず新しい「胡散臭さ」と、それに伴う「胡散臭いのが楽しい」をコミュニティーに提供するべきだ。

そうすれば、周りは多めに見てくれるはずだ。
少なくともワタシは多めに見る。


フォロバ100%屋の皆さん。

胡散臭さのイノベーションをワタシは待っていますよ😉

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