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場末のコンセント論

ここ10年ですっかり市民権を得た絵面がある。
それはカフェでコンセントを用いて充電する光景だ。
スマホ、タブレット端末、パソコンといった電子機器のバッテリーに給電する。
ここ10年でカフェは電気スタンドも手がけるようになったのだ。

充電するモノ

学生くん達が洗練された所作でスマホとコンセントを繋ぐさまは格好が良い。
動線にムダがなく、若者の真っすぐさが投影されているかのようだ。

それに引き換えワタシはもう駄目だ。
プラグを繋ぐのにモタモタとしてしまう。
コンセントの立て付けが悪いのではなく、ワタシの立て付けが悪いようだ。
最近まで気づかなかったが、ここ10年でワタシの劣化は相当に進んでいる。
たかがコンセント如きと思われるかもしれないが、一回でピシャッとハマってくれない。
たまに規格が全然違うプラグを無理やり入れようとしてしまう。
感性にも間違いなくガタがきている。
新進の気取りといったものがなくなってきている。
学生の頃はなんであれ新しいものが大好きだったが、最近では新しいものが怖くなってきた。

いやそもそも、
「学生の頃は」と過去で探し物をしている時点で、新時代への適応が乏しくなっている。
学生くん達は現代カフェにコンセントがあり、
ワタシは過去のなんであれにコンセントがある。

この差はあまりに大きい。
「現代カフェ」と「過去のなんであれ」。
「スマホ」と「くたびれてきた心身」。
充電口も充電媒体も両者ではまったく異なるのだ。



幅広い世代のコンセント

スキマ時間という言葉もここ10年で使われる機会がとみに増えた。
スキマ時間にスマホの充電を行い、オンラインでの来るべき戦いに備える。
そのためにカフェでの給電は必要不可欠な所作となってきたのだ。

スキマ時間といえば通勤通学電車だが、まだ電車の中での給電というものは寡聞にして存じ上げない。
だが、電車中での給電サービス開始も時間の問題なのではないだろうか。
吊り革に小さなコンセントが顔を出すのも夢物語ではない。
移動時間の王様といえばやはり電車だからだ。

充電スピードも日進月歩であり、通勤通学の時間で半日分の給電ぐらいはできるだろう。
だとすれば、もうカフェで給電する必要はなくなる。
そうなるとカフェで給電している光景は、わずか10年ばかし一過性の珍光景となる。
かつて鳴り物入りでデビューした「ポケベル」が、わずか5年程度で携帯電話に取って代わられた。
今ではポケットベルはネタとしての用途しかない。

「ポケベルってあったよね」
「ポケベルのようになりたくない」

といった具合で、40歳代以上が話しのスパイスに重宝する概念だ。

同じように、
遠くない未来にカフェ給電はネタ化するのではないか。

「カフェのコンセントで充電していたよね」

これだけで幅広い世代が一体化できる。
幅広い世代のコンセントになれるネタになれそうだ。



短命文化は人々のコンセント

こう考えてみると、
短命に終わった文化・慣習というものも悪くはない。

「ポケベル打ちしか出来なくて」といっただけで分かり合えるシンパシー。

「カフェのコンセントを中国人と取り合っていたら尖閣を…」といっただけで笑い合えるシンパシー。

僅かな期間を共有した同志として広い世代が繋がれる。

あとあと考えてみれば、非効率であまり行儀の良い文化慣習ではなかったという想い。
ちょっとしたイタズラを社会で共有したことの共犯意識と面白さ。

ポケベルなど、これまで短命に終わった文化。
そして、カフェ給電という短命に終わるであろう文化。

これらは、時を超えて、
多くの人々を繋ぐコンセントになるのだ。

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