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天地神名(Unique ancient Japanese Gods) 七生天八鈷 制作雑記

こんにちは!


はじめましての方ははじめまして!
カワバタロウです!


天地神名シリーズ
第二作目の創作神様は

目指すは主人公!

無手(むて)で戦う戦闘神!!

「私的」
「最強の神様」

になります!!

立ち絵:七生天八鈷



#001と同様、
この制作雑記は後追いのものになりますが



デザインした当時の状況を思い出しながら

再度、あらためてロケハンし直したりと、

制作における思いや
背景を紹介できたらと思います!



文字数は約20000文字……!!

読むのにお時間が掛かると思いますが、

もし宜しければ
お付き合いくださるとうれしいです。


「死なない!」

「あきらめない!」

「めちゃくちゃ強い!」の三拍子!


「戦い」

「勝利の神様」

です!!


よろしくお願いいたします!!



【七生天八鈷(しちしょうてんはっこ)】


さっき描き下ろした七生天八鈷/書画/KanjiRay-書道アートNFT artist/かんじれい/ Twitter @KanjiRay_Graph


記念すべき男神(おがみ)一柱目は


私的「最強要素」
盛りに盛り込んだ

戦いの神様になります。

OSコレクションadultシリーズより
https://opensea.io/assets/0x495f947276749ce646f68ac8c248420045cb7b5e/5850470248119203964216710025151870944616732817911520342438481086009810354177


OSコレクションSDシリーズより
https://opensea.io/assets/matic/0x2953399124f0cbb46d2cbacd8a89cf0599974963/5850470248119203964216710025151870944616732817911520342438481080512252215306

上記OSコレクションのDescriptionも是非読んでくださるとうれしいです。


目指したのは文字通り

「最強」

かつ、

「ヒーロー」的キャラクターで、

簡単に言えば

「中二設定」の権化
になります…!

付加された様々な最強設定は

本来は
脳内の妄想として外には出さず


「心の内に秘めておくべきもの……」

なのかもしれませんが


今回は制作雑記ということなので、

観念して

恥ずかしながら
簡単に説明させていただきますと、

七生天八鈷とは、



死なず

何度でも蘇り

決して捉(とら)えることは出来ず

その身には雷を宿し


動けば大風を巻き起こし

その蹴り足は

神槍のごとき鋭さで

その怒りは

天と地を揺るがす

不退転の心を持ち

決してあきらめることはなく

必ずや敵を討ち滅ぼす



と、なり

つまりこれは……


「わたしがかんがえた さいきょうのかみさま」であって

勝利を司る
誰にも負けない


まさに

「主人公的神様」になるのです!

【ぼくが、わたしが、かんがえた さいきょうのかみさま 】


小学生
または
中学生の時に、

ノートの落書きや頭の中で

「自分なりに考えた空想上の最強キャラクター」

を創作した経験がある人は
結構いらっしゃるのでは……!?

と思います。

七生天八鈷は
まさにそれで

しかも考えたのは

「こども」ではなく、

私という
「おとながぜんりょくでかんがえた」

「さいきょうのかみさま」

になりますから

そりゃあもう、大人げないです……!


…………

なんか、

書いていてめちゃくちゃ恥ずかしくなってきましたが、

途中でやめることは出来ないので、
あきらめてこのまま続けますと、

まず最初に私は

「最強とは何か?」について考えました。

臨済寺 仁王像  2022年4月撮影編集


文字通りそれは

「最も強い」ことのあらわれであって、


圧倒的なパワーのもとに
一撃で敵をやっつけるヒーローや、


負けるたびに
どこまでも無限に強くなり続けるキャラクターだったり、


炎や、氷
時間を止めてしまう能力など、


その種類はとても多く
枚挙にいとまがありません。

「では、結局最強とは何……!!??」

最強を標榜するキャラクターは古今東西多かれど、

様々な角度から議論されても

人それぞれで答えが違っていたり、

また

「条件付きで最強」

もしくは

「現在は最強」

みたいな感じで、

なかなか万人が納得する答えはありません。

ゲームのように強さが数値化されていれば
まだ、わかりやすいのかもしれませんが、

題材の自然物や建築物、
伝説、風習などは

さらに判断が難しく、
なかなかまとめることができません。



しだいに私は

「最強」とは何とも魅力的な言葉ではあるのだけれども、

決して手にすることのできない幻のような称号……


と思うに至り、

結果として


「私的には最強!!」


という条件を付けて

考えていくことに着地しました。

2022年4月撮影 臨済寺


【 最強の条件 】


私の求める「最強の条件」としては

まず、大前提として

「富士(福慈)山周辺の神様」

2022年2月撮影

という括りで
天地神名シリーズを描き始めたわけですので、

「富士山周辺に関わるもの」

という条件と


さらにもう一つ、

「私の好きな数字」

「最強の数字」とされる特別な数字

「聖数」(せいすう)

とよばれる


「七」 と 「八」


これを組み込んだものにしたい……!

そのどちらか、


または両方の要素を含んだものを
出来るだけ集めていきたい……


―そう思い

これらを「最強の条件」として

神様創作の足掛かりとしました。


【 聖数「七」と 聖数「八」】


「七生天八鈷」(しちしょうてんはっこ)

の数字を意図的に要素として取り入れた神様です。

数字の七は

「ラッキー7」

という有名な言葉が意味するとおり、

良い印象を持つ「幸運の数字」
だということが伺い知れます。


旧約聖書では、神様が6日で世界を創造し
「7日目」を休日としていたり、


他にも

つの海や大陸、

不思議につの大罪、


親の光りに福神、

つ道具に人ミサキ、

G7草粥など

七福神


で括(くく)られた言葉は多く、

「数が多いこと」「すべて」

「秩序」「完全」「全体性」

を象徴する
特別な数字になるのだそうです。

そして数字の「八」については、

その形が

「末広がりで縁起が良い」

という意味はもちろんのこと、

無限大(

百万(やおよろず)

雲立つ(やくもたつ)

重垣(やえがき)

雷神(はちらいじん)

岐大蛇(やまたのおろち)に

咫烏(やたがらす)

七股でもヤマタノオロチ


火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が死んだあとに生まれた神様の数は柱だったりと、


とくに日本最古の歴史書、

「古事記」(こじき)
「日本書紀」(にほんしょき)には

「八」という数字が多く見られ、
これもまた特別な数字だということが見て取れます。

このような

象徴的な意味や、
特別な意味を持つ数字を

「聖数」「神聖数」と呼び

私はこの

「最強の数字」

是非とも制作の要素として
取り入れたいと思ったのです。

2022年4月撮影 八千戈神社


【最強の人物が崇(あが)めた最強の神様たち】


「七生天八鈷」という神様は、「富士山周辺」にゆかりのある

様々な「最強要素」を取り入れて制作したわけですが、

では、

「富士山周辺における最強要素」

とは一体なんなのか?

それを順番に紹介していきたいと思います。

2022年2月撮影


まず最初に

静岡で「最強」と言えばこの方……!!




「徳川家康」(とくがわ いえやす)


駿府城公園 徳川家康像 2022年4月撮影


駿河湾の眼前にそびえたつ久能山(くのうざん)に祀られ、


応仁の乱から100年以上も続いた戦国の世に終止符を打ち、

260年もの長きに渡り

泰平の世の礎(いしずえ)を築いた

もはや説明する必要がないほど有名な

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将です。

久能山東照宮 2022年4月撮影


「でも、徳川家康って強かったの……?」

「とてもそんな風には見えない……」

こんな感じの印象を持っている方も
少なくないと思います。


たしかに
徳川家康の外見的イメージは

でっぷりとしたおなかに、タヌキのような風体



「狸親父」(たぬきおやじ)


と呼ばれるゆえんとなった狡猾さや、
晩年の小太りした恰幅の良い銅像、教科書の写真など、

そういったイメージが強すぎて

おおよそ「強い人」とは思われにくいのかなと。

しかし、徳川家康は
様々な武術において

「達人」と言われていました。


健康や体力作りにも、とても熱心で

70歳の頃には年間で50回もの鷹狩(たかがり)を行ったり、

69歳の頃には、駿河の瀬名川(せながわ)で水泳したりと、


とにかく

長寿&驚異的な体力の持ち主で、
精力的に体を動かして鍛えていたそうです。

一説によると、
一見小太りに見える体形は

ただ太っているのではなく、

「力士」のような筋肉と
脂肪を持ち合わせていたのではないか?

とも言われています。

出展:国立国会図書館デジタルコレクション 相撲錦絵 日本大相撲関取(3点の内1つ)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313354?tocOpened=1


剣術については、

剣聖で名高い「上泉信綱」(かみいずみ のぶつな)の流れを組む

奥山公重(おくやま きみしげ)から剣術を学んだり、


塚原卜伝(つかはら ぼくでん)
に始まる新当流の剣豪、

松岡則方(まつおか のりかた)から「一の太刀」を含む兵法を学んだり、

伊藤一刀斎の弟子、小野忠明(おの ただあき)や、

新陰流の柳生宗矩(やぎゅう むねのり)を召し抱えるなど、

塚原卜伝
出展:国立国会図書館デジタルコレクション 新撰東錦絵 武蔵塚原試合図(2点の内1つ)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1301523?tocOpened=1 
武蔵vs卜伝  (武蔵が生まれる前に卜伝が亡くなっているのであり得ない戦いだったとか…)


他にも、馬術においても有名で、

大坪流や八条流を修め


「海道一の馬乗り」

と言われていたほどで、

鉄砲や弓、水泳など、
おおよそ、武芸百般を鍛錬し、
生涯をかけて学んでいたとされています。


そして、徳川家康は

「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」


とも残していて、

ここら辺に「徳川家康 最強」の一端が見て取れます。

確かに家康は
個の武術においては「最強」ではなかったのかもしれませんが、


自分より能力の高い家臣をも登用し、
公平に目を掛け、信頼を築き

自身の弱さと向き合い
どうすればさらに良くなるのか、
常に考えて実践する


など、

武術もさることながら
それ以外の点においても

格別の能力を発揮した武将なのです。

次は、そんな徳川家康について

私が考える
「最強要素」について
紹介したいと思います。


【 忍耐と健康と学習の徳川家康 】



「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

この有名な句が表すように

徳川家康は
待って待って、

待ちに待ってチャンスを掴んだ武将です。

織田家と今川家の真ん中に位置した
弱小勢力に生まれた家康、そしてその生地、三河は、


当時、
織田か今川のどちらかに占領されてもおかしくない状況で、

そのため家康は
政争の為、あちこちと人質に出されたり、

裏切られたり、

とにかく波乱万丈の幼少期を過ごすことになりました。

家康の幼少期(竹千代)


家康が今川家の駿府(静岡)で人質として生活したのは、
8歳から19歳までの期間で、

織田家での人質生活を入れるとさらに長くなります。

「およそ12年」

駿府での人質生活は、

待遇は悪くなかったにせよ

肩身の狭い思いをし
耐え偲んで生きてきたことが伺えます。

かつて竹千代(家康)が人質として預けられていた臨済寺 2022年4月撮影


織田信長今川義元(いまがわ よしもと)を打ち破った

かの有名な

「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)

のあと、

家康は今川家から飛び出し
晴れて人質生活から抜け出しましたが、

生地に帰り、独立した三河の地でも
まだまだ忍耐の日々が続きました。


織田信長と結んだ「清州同盟」(きよすどうめい)

最初は対等の関係だったものの
次第にその力関係が崩れ、

気づけば信長に臣従するような関係になり、
しかし、

家康は耐えて
その関係を甘んじて受け入れました。

他にも、

家康の正室である「築山殿」(つきやまどの)や、

家康の息子「信康」(のぶやす)


「敵国と内通しているんじゃいか!?」


と、織田信長に疑われたことで、

断腸の思いで
二人を処断しなくてはならなかったことや(諸説あり)

平信長(織田信長) 出展:国立国会図書館デジタルコレクション 肖像. 1之巻 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551759?tocOpened=1


長年、
織田家の為に家臣のように尽くしてきたのに(他家であるにも関わらず)

信長が「本能寺の変」で亡くなった後は

家康が後継者になることはなく、

豊臣秀吉(とよとみひでよし)が台頭し、
天下統一事業を根こそぎ持っていかれてしまったり、

豊臣秀吉 出展:国立国会図書館デジタルコレクション 肖像. 1之巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551759?tocOpened=1

あまつさえ

そんな秀吉に臣従せざるを得なくなり、

その結果、

生地である三河国を秀吉に取り上げられ、
水はけの悪い湿地帯の広がる関東に飛ばされてしまったりと

さんざんな扱い。


「断れば徳川つぶしの口実を与えるだけだから我慢してがんばろう。」


と、家康は

反対する家臣たちを説得し、
またもや「忍耐力」で乗り切ります。

そしてその後も

家康は待ちに待ち、

耐えに耐え、

地力を養いながら
チャンスが訪れるのをひたすら待ち続けました。

では……

チャンスとは一体何か……?


それは

「豊臣秀吉の死」です。

やがて、家康の目論見通り
豊臣秀吉が亡くなると、家康は動き始めます。

「関ヶ原の戦い」

この時家康は59歳と言われ

以降の歴史は説明するまでもなく
徳川家康が西軍に勝利し、

江戸幕府を開いていくことになるのですが、


体制を盤石にし、
豊臣家を滅ぼしたとされる「大阪夏の陣」では、


齢(よわい)74歳の老齢であって、


本当に待ちに待って、

おじいちゃんになってから
ようやく訪れたチャンスを掴み取り、

戦国の世を終わらせた

まさに
「忍耐の人」になるのです。

そしてその翌年、
75歳にして家康は亡くなりましたが、


家康の寿命があと数年でも短かったら

江戸幕府は長続きしなかった……

とも見て取れ、

長寿であったがゆえの勝利とも言え替えられます。

当時、戦国時代に生きた人々の平均寿命は
40~50歳ほどで、


75歳まで生きた家康は、
まさに「黄花晩節」(こうかばんせつ)

本人もめちゃくちゃ「健康」に気を使っていたそうで、

刀の素振り、弓引き、水泳、鷹狩、乗馬など、

体を動かすことが健康に良いと知っていた家康は

病床につく直前まで鷹狩を行っていたほどです。


他にも、生涯粗食に徹し
麦飯を主食とし、

豆味噌や旬の食材、新鮮な魚、野菜など、
地の物を好んで食べ

過食には気を付けて
お酒もほどほどにしていたとのことでした。


そして家康は
生薬(しょうやく)などの薬学にも大変精通していたそうで、


海外の薬学書などを愛読し、
その知識量は専門家でさえ驚くほどだったと言われています。

出展:国立国会図書館デジタルコレクション 本草綱目. 第1冊(序・総目録・附図巻之上)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287082?tocOpened=1


自分で調合した薬を飲むのは当然として、
時には家臣にも処方していたとのこと。

家康が開いたとされる薬園は、
4000坪以上もの広さがあったと言われており、

当時は

「駿府御薬園」と言われ、

様々な薬草や薬木を栽培していたそうです。


家康が常用した薬で有名なものに

「無比山薬丸」(むひさんやくがん)

というものがありますが、
この薬は通称


「八の字」(はちのじ)

と呼ばれていて
(聖数:八)

薬箱の段目にしまうことを決めていたため、この名前になったと言われています。


ちなみに徳川家康の死因として、

「晩年食べた鯛の天ぷらに当たったせい」

と思っている方が多いと思いますが、

史料として残っている記録によると、

家康が鯛の天ぷらを食べてから亡くなるまで
およそ3か月ほどの期間が空いているため、

食中毒説には無理があるとして、
現在の死因説としては

「胃がん説」が主流となっているそうです。

久能山東照宮 神廟 2022年4月撮影


「長命こそ勝ち残りの源である」

―そう語り続けていた家康は、


健康に気を使い、他者よりも長生きすることで

より多くのチャンスに巡り合えるよう常日頃から心がけ、

その徹底したさまは
まさに、

「最強」と言っても過言はありません。



【学習力の徳川家康】


家康は
失敗や歴史などから学び取る

「学習力」

も優れていたと言われています。

「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)

「武田信玄」(たけだ しんげん)大敗した家康は、

多くの有力な家臣を失いながら、
命からがら浜松城へと戻ってきました。

まさに完全敗北。

しかしこの時
完膚なきまでに打ち負かされた家康がとった行動は

思いがけないもので、

それは

敗軍の将である
自身の情けない姿をあえて絵に描かせ、

それを後世に残し
「戒め」(いましめ)にするということでした。

「しかみ像」という絵があり

これがとても有名なのですが、

しかみ像の像

現在では諸説あるようで
根拠がないとの説が有力視されており、

果たして真実はどこにあるのか
とても気になるところですが、

ただ間違いなく言えることは

この敗戦をきっかけに家康は猛省し、
また家臣たちの大事さを知り

負け戦の経験から学び取り、
天下統一の糧にしたということです。


また、家康の家系はもともと短気な人が多かったらしく


家康もご多分に漏れず
若かりし頃は短気で血気盛んだったよう。

家康の親や親族などは
そのせいで早死にしたとも言われており、


家康自身も
自分の思い通りに事が運ばなかった時は

爪を噛んだり、
馬の鞍(くら)を拳で叩いたりする癖があったとのことでした。

しかし、家康は

そんな自身の短気さは
いずれ命取りになる

親族の末路を見て学んだのか、

「寛容さ」

を身に付けていきます。

自分に弓を引いた家臣であっても許し、
自分よりも優秀な部下を召し抱え

家臣の事をとても大事にしたそうです。

有名なエピソードとして
豊臣秀吉が大名を集めて宝物を自慢していた際

「おまえの一番の宝なんだ?」

と問われた家康は、こう答えたそうです。

「田舎生まれなので秘蔵の品はありませんが、私のために命をかけてくれる家臣が500騎ほどおり、これが私の宝です。」


………………

……カッコイイ……!


まさに、大将の器……!!

こんな嬉しいことを主君から言ってもらえたら

それはそれは

家臣も頑張ってしまうというもの。

事実、
家康と家臣の繋がりは非常に強く

有力な家臣が支え続けたことで家康は天下を制することができた

と言ってもいいのかもしれません。


他にも

大敗を喫した敵であっても尊敬し、
たとえば

武田信玄の戦術を自分の戦(いくさ)の中に
取り入れたりもしました。

武田晴信入道信玄
出展:国立国会図書館デジタルコレクション 武田上杉川中嶋大合戦の図(3点の内1つ)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305638


天下分け目の合戦と言われる

「関ヶ原の戦い」においては、


かつて「三方ヶ原の戦い」

武田信玄が使った戦術を
家康も使用したとされ、

己の敗北をそのままにせず、
成長する糧とし、

学び、

そして勝ちに繋げたのです。

また、武田家崩壊後は

「赤備え」(あかぞなえ)

と呼ばれる最強の騎馬軍団を
徳川家に迎え入れ、

家臣の「井伊直政」(いい なおまさ)に受け継がせたりと、

敵の家臣であっても公平に接し、

また、躊躇なく人の良い所を取り入れ
マネっこができる人だったとか。

「まねる」とは「学ぶ」の語源ともされており、

家康は、様々な情報や経験から学習し、
軍事や政治に活かし

「学び」によって大成することができた
当時では数少ない武将の一人だったと言え、

まさに

「最強」と呼ぶにふさわしい存在だと思いました。


また、
学び続ける姿勢を貫いた一例として、
家康が読書家だったことが挙げられます。


家康が読む本は
日本の書籍にとどまることなく、

中国の兵法書や、先ほど紹介した薬学の本などもよく読まれたそうで、

その中でも歴史書が好きだったとされ、

鎌倉時代の
源頼朝(みなもとのよりとも)などを
尊敬していたのだとか。

伝源頼朝像(模本)
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9252?locale=ja


徳川家康は

耐え忍び長生きすることでチャンスを増やし、

天下取りへの挑戦回数を増やしました。


そして失敗しては学び、
時流に合わせては臨機応変に対応し、


「忍耐」「学習」「健康」という武器をもって

天下統一を成し遂げた

「最強の武将」なのです。

2022年4月撮影


七生天八鈷は、そういった家康公の最強要素を取り入れるために、

聖数の「七」

長く「生」きて、チャンスを掴んだ象徴、

「生」という文字を合わせ、

「七生」(しちしょう)という名前を付けました。

「七生」とは仏語(ぶつご)で


「七度生まれ変わる」

転じて、

「何度も」「永遠」という意味になります。

つまり七生天八鈷は、

死なず、諦めず、

永遠性を持った神様という意味になり、

家康公の忍耐、長寿、学習にあやかった

「最強の要素」を持った神様になるのです。

【余談】

徳川家康は
先ほども紹介させていただいた通り
私生活では特に

「質素倹約」に努めていたと言われており、

麦飯を主食としていたことからも
その様子が伺い知れますが、

「七生天八鈷」
そんな質素なイメージにあやかり、

彩度が低めの地味目の配色で構成しています。

他の神様と比べると
なんとなく物足りない色味かな?と思ったりするかもしれませんが、

私的にはその地味さが
とっても気に入ってたりします。


【 徳川家康が崇めた神様 】


戦国の世に生きた武将たちは

常に死と隣り合わせの日々でした。

幾たびも繰り返される合戦を勝ち続けることは難しく、

たとえ強者であっても
一たび運命の歯車が狂えば、

あっというまに死の淵だったりと、

運命はとても気まぐれで、
そんな「紙一重」を制するために武将たちは

神様を崇め奉る「信仰」をもって、

戦勝と武運を手繰り寄せようと試みてきました。

徳川家康も多くの神様を崇め


「神君伊賀越え」(しんくんいがごえ)をはじめとする

困難を乗り越えたエピソードがいくつか残っています。


そして私はこう考えました……。


「最強」の武将が崇敬(すうけい)した神様こそ、

「最強」の守護神なのではないか……?


…………

とまあ……
めちゃくちゃ安易な考えですが、


「私的最強」

を具現化するために、

次に私は
徳川家康公が崇めた神様を調べ

そんな神様たちの「最強要素」を取り入れ、
制作に繋げていくことにしました。


【 陽炎(かげろう)と日光の化身 】


徳川家康が崇(あが)めた神様で、
私がまず第一に挙げるとすればこの神様でしょう。


「摩利支天」(まりしてん)

摩利支天
「仏像図彙. 三」(国立国会図書館デジタルコレクション)(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442143)を加工して作成 


摩利支天は仏教の神様で
本来「秘仏」(ひぶつ)とされ、


信仰していることを

「語らない」

という風習もあってか、

日本人でも知らない人は多いのではないでしょうか。


摩利支天は
「陽炎」「太陽の光」などを神格化した護法善神(ごほうぜんじん)で、


常に太陽の前にいて

その神通力により
何人たりとも捉(とら)えることはできず、

また

焼くことも
傷つけることもできないとされ、

武士達の間で広く
守護神としての信仰がありました。

摩利支天の姿は
女神だったり、男神だったり、

一面二臂(いちめんにひ)だったり、
三面六臂(さんめんろっぴ)
だったりと


その姿は様々で、

イノシシの上に乗っている姿がよく見られ、
7頭のイノシシに乗っている摩利支天も見られます。(聖数7)

(ちなみに、八鈷のお供のイノシシはこの摩利支天から来ています。)


戦国武将の前田利家(まえだ としいえ)
兜の中に摩利支天の仏像を入れていたという話は有名ですが、

他にも毛利元就(もうり もとなり)
山本勘助(やまもと かんすけ)など、

様々な武将達が摩利支天を信仰していて、


徳川家康も
念持仏(ねんじぶつ)(礼拝のため身近に置いた仏像)として

保有していた摩利支天の像があり、


この仏像が、
静岡県静岡市葵区の

「静岡浅間神社」(しずおかせんげんじんじゃ)内にある

「八千戈神社」(やちほこじんじゃ)

安置され

当初は「摩利支天社」という名前だったと言われています。

静岡浅間神社 2022年4月撮影
八千戈神社 2022年4月撮影


明治時代の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により、

「摩利支天社」「八千戈神社」(やちほこじんじゃ)と名を変え、


お祀りされていた摩利支天像は、
かつて家康が今川家の人質だった幼少期、


太原雪斎(たいげんせっさい)より教育を施された

「臨済寺」(りんざいじ)へと移ったとされています。

臨済寺 2022年4月撮影

また、聖数「八」を冠する

八千戈神社(やちほこじんじゃ)にお祀りされる神様

「八千戈命」(やちほこのみこと)

「大己貴命」(おおあなむちのみこと)とされ、


つまりは

「大国主命」(おおくにぬしのみこと)であって、
国津神(くにつかみ)の代表的な神様になります。

八千戈命(やちほこのみこと)

様々な苦難を乗り越え、道を開き、

国土経営にあたられたことから

開運の神
そしてスポーツや武道などの
必勝の守護神とされていて、

なんとなく家康公のイメージに近いような気もしました。


【静岡浅間神社】(しずおかせんげんじんじゃ)


神様創作の足掛かりとして
まず私は、

徳川家康公を軸に

家康公との関りが強い場所を探してまわりました。


その結果、
一番最初にたどり着いた場所は

三保の松原にほど近い
「久能山東照宮」

静岡市のど真ん中にある、
とても古い歴史を持つ

「静岡浅間神社」になるのですが


その中でも、
わたしが一番最初にロケハンに訪れた場所は、

上でも紹介させていただいた、

静岡浅間神社の境内にある

「八千戈神社」(やちほこじんじゃ)になります。


「静岡浅間神社」はとても広く、
ほかにも様々な神社があって

「八千戈神社」(やちほこじんじゃ)をお参りする流れで

一緒にあちこちとお参りさせていただきました。


そして

何か他に「最強要素」がないかな…?

創作につながるアイデアを
神社内で色々と探し回ったことを思い出します。

「静岡浅間神社」(しずおかせんげんじんじゃ)という名前は「総称」

本来の名称は、

神部神社 浅間神社 大歳御祖神社(かんべじんじゃ あさまじんじゃ おおとしみおやじんじゃ)

という3つの神社が連なる呼び名が正式で、

その他にも境内には、

麓山神社(はやまじんじゃ)
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
八千戈神社(やちほこじんじゃ)
玉鉾神社(たまぼこじんじゃ)

などがあり、

見える範囲では合計つの神社で構成される

「駿河総国社」となります。(聖数七)

とくに、
神部神社(かんべじんじゃ)の歴史は古く

約2100年前には鎮座していたとされ、
この地方最古の神社とされています。

徳川家康にまつわるエピソードとしては、

かつて
家康が今川家の人質だった折、
静岡浅間神社で元服式(成人式)を行ったことや、

静岡浅間神社の背後にあった
「賤機山」(しずはたやま)にそびえたつ
武田方の城を攻めるため、

「平治の後は必ず再建する」

と誓った後
社殿を焼き払い

武田方の城を攻め滅ぼし、

そののちに再び社殿を造り直し、
誓いを果たしたとの話が残っています。

その際に
全国から優れた職人が集められましたが、
私が特に注目したのが彫金彫刻で、

精緻(せいち)に彫り込まれたや、鳳凰

「立川流彫刻」の代名詞と呼ばれる

「粟穂に鶉」(あわほにうずら)など、

極彩色に彩られた美麗な神社は

「東海の日光」と称えられたほどだったそうです。

静岡浅間神社 2022年4月撮影編集
静岡浅間神社 2022年4月撮影編集


余談ですが、

「立川流彫刻」の
「粟穂に鶉」などが見られる
「浅間神社」(あさまじんじゃ)「神部神社」(かんべじんじゃ)は

とても神聖な場所とのことで、

通常の参拝では入ることは出来ません。

社務所でお金を払って、
お祓いをしてもらった後に

ガイドさん付で初めて参拝することができる、

ちょっとした特別な場所になるのですが、

そこでは写真撮影が禁止になっています。

地元の人でも意外と知らない豆知識的情報になりますが、

ガイドさんの話ですと、
「団体さんなどの大人数が来ても対応できないかも」

みたいなことをおっしゃっていたので、

もし気になった方は、
少人数でこっそりと行かれてみるといいかもしれません。

現在、社殿の修復工事を順番に行っているので、

浅間神社、神部神社に工事が入ると
数年は参拝できないかもしれない為、

行かれる前には確認をした方が良いかと思います。

写真は撮れませんでしたが、
ガイドさんの知識豊富なお話が聞けてとても楽しかったです。

また余談ですが、のちに静岡で発展したタミヤやバンダイなどのプラモデル産業も、実はこの静岡浅間神社の造営が関係しているのだとか……。

久能山東照宮 展示模型作品 2022年4月撮影


そして、
静岡浅間神社内で見られる様々な彫刻の中には

精巧に造形された

「力士像」
が何点か見受けられます。

静岡浅間神社 力士像 2022年4月撮影編集

「力士」とはつまり「相撲」を行う人の事で、

本来の意味は

神託によって神の依り代(よりしろ)となり
神通力を持ち、

神からの御利益を賜る特別な者
、で

相撲は神に捧げる神事となり、

また日本古代から伝わる
武道、格闘技、スポーツでもありました。

相撲の戦い方は
今日(こんにち)では主に
組み合って投げる姿が連想されますが、

記録に残る人間同士の最古の相撲は

今の相撲とは全然異なっていたようで、

非常に鮮烈な戦いとして
史料に残っています。


「七生天八鈷」は

武器を持たずに戦う
屈強な力士の要素にあやかり

「無手」(むて)の出で立ちとしています。

相撲の起源に関わる
古代の神様の要素も取り入れていますので、

次は日本最古の相撲について
紹介していきたいなと思います。


【当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみすくね)】


芳年武者无類 野見宿称・当麻蹴速
出展:国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302751?tocOpened=1


人間同士による最古の相撲の記録
「日本書紀」(720年頃)という歴史書に見られます。


現在の地名にもその名が残る 奈良県葛城市當麻 の地に
その昔、

「当麻蹴速」(當麻蹶速)(たいまのけはや)という

とても強い人がいて、

彼は、命を懸けた勝負をしてくれる強者を探していました。

これを聞いた時の天皇が
出雲国(島根県)でめっちゃ強いと評判の

「野見宿禰」(のみすくね)

という人を呼び寄せ

「捔力」(すまい)

で戦わせたとのこと。

「捔力」(すまい)とは、つまり「角力」のことで、要するに力比べのことだそうです。

 現在でも残る相撲界を指す「角界」という言葉はここから来ています。

「当麻蹴速」「野見宿禰」の戦いはその後どうなったかというと、

がっぷり四つに組み合い、投げ合った………
ということはなかったそうで、

試合展開はなんと


お互い
「蹴り合い」の応酬……!


そして、最後には

「野見宿禰」「蹴速」の肋骨を蹴り折り

さらには倒れた蹴速を踏みつけて
腰を折り

絶命させたという、

なんとも壮絶な戦いだったそうです……。

(今の相撲と全然違う……)

このように、かつての相撲(捔力)は
打撃技の応酬であって、

命がけの勝負だったということが伝わってきます。

七生天八鈷の絵も、
右足を掲げた蹴りの構えを取っており、

最古の捔力(すまい)による蹴り合いから
要素を取り入れさせていただきました。

また余談ですが

名前の「八鈷(はっこ)」

相撲の掛け声、
「はっけよい」(八卦よい)から取り入れ(聖数:八)

「八卦(はっけ)」という名前にしようかな?

と最初考えていましたが、

後述する内容から
八卦ではなく、

「八鈷(はっこ)」とすることに決めました。


【建御雷神(たけみかづち)と 建御名方神(たけみなかた)】


先ほどは人間同士の最古の相撲の記録について紹介しましたが、

さらにさかのぼり

「古事記」

という日本最古の歴史書に
神様同士の戦いが記されており、

これが最古の相撲の記録と言われています。

かつて建御雷神(たけみかづち)が天から出雲の地へ降り立ち、

大国主神(おおくにぬしのかみ)に国を譲るよう迫った際、

大国主神(おおくにぬしのかみ)は二人の子らに決定を託しました。


その子供の一人が

建御名方神(たけみなかた)で、

彼は、国譲りを迫る建御雷神(たけみかづち)に立ち向かい、
力比べの勝負を持ち掛けます。


怪力を誇る建御名方神(たけみなかた)


建御雷神(たけみかづち)の手に掴みかかりますが、

建御雷神(たけみかづち)の手は氷や剣に変化し、

建御名方神(たけみなかた)は
恐れ、おののきました。


今度は建御雷神(たけみかづち)が建御名方神(たけみなかた)の手を掴むと

その手を葦(あし)のように握りつぶしてしまい、
そのまま放り投げてしまったとのこと。

あまりの力量の差に、

建御名方神(たけみなかた)は
長野県の諏訪湖の地まで逃げていったとの話になります。

建御雷神(たけみかづち)は、「武神」「雷神」「地震の神」ともいわれ、


徳川家康はこの建御雷神(たけみかづち)も崇めていたとされています。


一方、

戦いに負けて、
諏訪湖まで逃げてしまった建御名方神(たけみなかた)ですが、

こちらも「武神」として現在まで崇敬を集め続けており

徳川家康も建御名方神(たけみなかた)を崇めていたようです。

しかし、

「負けた神様なのに一体なぜ?」

と思い、調べてみると


その理由としては、

建御雷神(たけみかづち)が国譲りを迫った時、

大国主神(おおくにぬしのかみ)の息子の一人である

「事代主神」(ことしろぬしのかみ)は、

建御雷神(たけみかづち)に歯向かうことなくあっさりと降参してしまったのに対し、

建御名方神(たけみなかた)は
臆することなく、戦いを挑みました。

強大な敵にも立ち向かうという不屈の勇気こそが
建御名方神(たけみなかた)の本領とされ、

おそらくはその「勇」を頼り、

多くの武将たちから
崇敬(すうけい)を集めていたのではないかと思いました。

また、
建御名方神(たけみなかた)は風の神様ともされ、
雷神である建御雷神(たけみかづち)と立ち並ぶことで


江戸時代の画家、
俵屋宗達(たわらや そうたつ)が描いたとされる

「風神雷神図屏風」(ふうじんらいじんずびょうぶ)

ふと思い出したりもしました。

風神雷神図屏風
「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-11189-1?locale=ja)を加工して作成


七生天八鈷の

「体には雷を宿し、動けば大風を巻き起こす」

という設定は、
この二柱の神様を参考にさせていただいたものになります。


また「八鈷」の「鈷」(こ)という字についてですが、
建御雷神(たけみかづち)の雷要素からの派生で、


元々「鈷」(こ)

インドの武器であった杵(きね)鋒(ほこ)などを象徴化したもので、

煩悩を打ち払い、仏性を顕現する仏具として使われ、

先端の分かれ方によって
三鈷(さんこ)や五鈷(ごこ)など様々な種類があります。

金銅五鈷杵
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム (https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1387-0?locale=ja)

またその名を「金剛杵」(こんごうしょ)ともいい、

サンスクリット語では


「ヴァジュラ」

と呼びます。

「ヴァジュラ」と聞いてピンと来た方はいらっしゃるかもしれませんが、

ヴァジュラとはつまり
インド神話で、


「インドラ」

という雷の神様が使役する
「雷電」のことを言い、


その容姿は、
髪も皮膚も全身が茶褐色だったとされています。

八鈷は
「八」という聖数と「鈷」という言葉を組み合わせたことにより、

「多くの武器」または「多くの雷」

を宿す神様、
という意味になるよう制作しました。

八鈷の顔面左から右上腕にかけての入れ墨は、
この雷をイメージしています。


【日本霊異記】(にほんりょういき)



「日本国現報善悪霊異記」(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)

通称、

「日本霊異記」(にほんりょういき)

と呼ばれる

平安時代に書かれた、
日本最古の説話集(物語、伝説集)があるのですが、

この本の中には「雷」における記述がいくつか見られます。

その内容としては、

雷は畏れ多く、崇め奉るものであって、

また、

雷神の力によって授けられた子は
人並外れた怪力を持っており、

のちに

「道場法師」(どうじょうほうし)

と呼ばれる雷神の子は

「素手」で鬼を退治するなど

強者としての描写が見受けられます。

また、お話を作る際に
「第一話目」というのはとても重要で、

読み手をいかにその作品に引き込むかが問われる

まさに「象徴」だと思うのですが、

日本霊異記の第一話目には、

この「雷」に関する説話が記されており、


雷神の子のお話についても
その数話あとに記載されるなど、

何となく

「雷」が特別視されているように感じました。


当時の編纂者が持っていた、

雷に対する
並々ならぬ「思い」のようなものがあったかどうかは分かりませんが、

説話集の一番バッターに抜擢されたことは
まさに象徴であって、

「雷」をただの説話ではなく、
現実のものとして畏れ、崇(あが)め奉(たてまつ)り、

そうすることが礼節であって、

かつ、
その神性にあやかっているような気もしました。


【8の字】(はちのじ)


徳川家康は
通称「八の字」という秘薬を作り、
常用していた話は
先ほども紹介させていただきましたが、


その他にも

「8の字」という同名のお菓子があり

「カクゼン桑名屋」という静岡の焼き菓子専門店から販売され

半世紀以上の歴史がある静岡銘菓になります。

8の字(素朴な味で美味しい焼き菓子)

一説によると、「8の字」の創業者は
江戸時代の終わりごろに

桑名藩(現在の三重県桑名市周辺)と交流があり、それが店名の由来になったのではないかとのこと。

桑名藩といえば、1600年
関ヶ原の戦いの後に

「本多忠勝」(ほんだただかつ)が初代藩主をつとめた地とされ、


本田忠勝は

通称「平八郎」と呼ばれており、

徳川四天王と称えられる勇名を馳せた武将です。

本多忠勝
「徳川家十六善神肖像図」(国立国会図書館デジタルコレクション)(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304379)を加工して作成 

銘菓「8の字」の由来は
この「平八郎」から来ているとされる説もあるそうで、


本田忠勝は、その生涯において
大小合わせて57回の合戦に参加したそうですが、

ただの一度も、かすり傷一つ負わなかったと伝えられていて

「蜻蛉切」(とんぼきり)という
めっちゃ長い槍を愛用し、戦場を駆け抜けた

「東国最強の武将」と言われています。


そして話は戻って「蹴り技」についてですが、

蹴り技は
「前蹴り」「足刀」(そくとう)などを使った一撃は、

「槍」と例えらることがあり、

蹴り = 槍 の連想で

字のごとく「最強」の名を冠する本田忠勝のイメージにあやかり、

今回の創作要素に取り入れさせていただいたきました。

そして聖数「八」はここでも見られ、
やはり特別な数字であることがうかがい知れます。


【 酔八仙 張果老 】(すいはっせん ちょうかろう)


蹴り技についてはもう一つ面白い要素があります。

話は戻って「静岡浅間神社」の彫刻になりますが、


通常入ることのできない神社、
浅間神社(あさまじんじゃ)神部神社(かんべじんじゃ)などには

「立川流彫刻」と呼ばれる
緻密な彫刻作品が見られますが、


その中に一つ


「張果老」(ちょうかろう)

という仙人の彫刻があります。

「張果老」は中国にいたとされる
とてもユニークな仙人で、

多くの面白い伝承を残しています。

張果老図(模本)
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-2535?locale=ja

たとえば、
時の皇帝に呼ばれた張果老が
皇帝のもとへと出向きますが、

何故か、その道中で死んでしまい、


でも数日後には

「張果老?」
「見ましたよさっき、あそこで」


みたいな感じで、
何事もなく復活してたりします。


張果老は、後ろ向きにロバに乗る姿が有名で、

一日に数万里という距離を移動し、

また、休む時は、

そのロバを紙のように折りたたんで小箱にしまい

乗るときには、水をかけてロバを元の形に戻したと言われています。

(水で大きくなる恐竜のおもちゃを思い出しました)

ではなぜ、
張果老が後ろ向きにロバに乗っていたのかというと、

一説には

「前進することは、後退することである」

と、人々に警鐘を鳴らしていたそうで、

1000年後の未来を予見していたとも言われていて

実際に1000年後の社会と張果老の言葉を照らし合わせると

色々と合致するところがあり、

なんとも不思議な方だと思いました。

また、中国拳法には

「酔八仙拳」(すいはっせんけん)という

お酒に酔ってフラフラになったような戦い方をする不思議な拳法があります。

ジャッキー・チェンの映画

「酔拳」などが有名で、

トリッキーで不思議な魅力がある拳法なので
結構知っていらっしゃる方はいるかと思います。

酔八仙拳は、

先ほどの張果老を含めた、中国に伝わる八人の仙人が
お酒に酔っぱらった姿をイメージした拳法で、

八人の仙人には、それぞれ独自の技があります。


その中でも、張果老は

「連続蹴り」

の技を持つ仙人とされていて、
ここで、思いがけなくも

「復活」「蹴り技」の要素が繋がり、

何だかワクワクしたことを覚えています。

(そしてここにも聖数の八)


【 神使(しんし)?神様? イノシシの談 】


七生天八鈷はお供にイノシシを連れています。

イノシシは田畑や農作物を荒らす害獣として
現在では広く知れ渡っていますが、


かつては
山の恵みや多産の象徴ともされていたそうで、
縄文時代の土偶にもイノシシの姿が見て取れます。


襲われると大人でも命に関わる危険な生物、イノシシ……

ここではそんなイノシシについて、
少し紹介をしていきたいと思います。


まずは、先ほども紹介させていただきました

「摩利支天」

摩利支天が背に乗る動物はイノシシですが、

数が1頭だったり頭だったり、
茶色かったり白色だったりと

いくつかのパターンがあります。

ではなぜ、そもそも摩利支天は
「イノシシ」に乗っているのか?

この疑問については諸説あるそうですが、
よく見かける話としては

摩利支天の動きはとても素早く、

物凄い速さで疾走するイノシシの姿に重ね合わせて、

また、
その勇敢さに由来しているのではないかとのこと。

他にも、イノシシに関わる伝承があり、

イノシシを「神使」(しんし)として
お祀りされている神社がいくつかあるのですが、

その中に「愛宕神社」(あたごじんじゃ)という神社があり、

とても由緒が古く、


奈良時代
「和気清麻呂」(わけのきよまろ)という人が、

鎮護国家(ちんごこっか)の神として京都に
「愛宕大権現」(あたごだいごんげん)を祀った際、

清麻呂とイノシシの間に
深い縁があったことに因(ちな)み

イノシシが愛宕神社の神使になったとされています。

皇国二十四功 和気清麻呂公
出展:国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312916?tocOpened=1

では、
その「深い縁」とは何なのか

それは、
同じく奈良時代

のちに「日本三悪人」と呼ばれる

「道鏡」(どうきょう)という僧侶がいて、


彼は僧侶の身でありながら絶大な権力を手に入れ、
政治にまで手を出すようになったのですが、

やがて道鏡は
天皇の位につこうと画策し始めます。

しかしその野望を
「和気清麻呂」が阻止したことがきっかけで

清麻呂は道鏡に
なみなみならぬ怒りを買ってしまいます。


この出来事は
「宇佐八幡宮神託事件」(うさはちまんぐうしんたくじけん)
と呼ばれていて、

数ある皇室危機の中でも衝撃的な事件とされているそうです。


そして、計画を阻止され
激高した道鏡は、

清麻呂の脚の腱(けん)を切り

「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」

というな変な名前に改名させ

(小学生のイジメ……??)

鹿児島へ流罪にした挙句、

さらには
まだ怒りが収まらなかったのか、

清麻呂を謀殺するために
刺客を送り付けました。

命を狙われることになった清麻呂ですが、
鹿児島へ向かう途中、

突如、

天地雷鳴とともに300頭にもなるイノシシの大群が現れ

清麻呂を護った
と言われています。


そして
清麻呂はイノシシに護られながら

道中の「宇佐神宮」(うさじんぐう)に詣でたところ、

道鏡に切られたはずの足のケガは治り、
すっかり回復したとのこと。

このことからイノシシは、
足腰の病気や怪我の回復などの御利益を得て、

清麻呂を救った神の使いと言われるようになりました。

また宇佐神宮でお祀りしている神様は、
全国で一番多く祀られている

「八幡神」(やはたのかみ、はちまんしん)

八幡大明神
「仏像図彙. 三」(国立国会図書館デジタルコレクション)(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442143)を加工して作成

と呼ばれる神様で、
その数なんと約4万社……!!

宇佐神宮はそんな数多(あまた)ある神社の中でも

総本山とされている神社になります。
(聖数:八)


また、愛宕大権現(あたごだいごんげん)については

「勝軍地蔵」(将軍地蔵)(しょうぐんじぞう)

というお地蔵さんが
本地仏(ほんじぶつ)とされていて、


これは
先ほど取り上げた徳川家康の
「神君伊賀越え」(しんくんいがごえ)
関わる神様でもあるのですが、

本来、無限の慈悲をもって苦悩する人々を包み込み、
救済する守り神であるお地蔵さんが、


鎧兜に甲冑と武器を装備して馬にまたがり
全力で戦闘態勢を取った姿をしており、

普段私たちがよく見るお地蔵さんとは
全く違う出で立ちをしているのが

勝軍地蔵(将軍地蔵)(しょうぐんじぞう)になります。

愛宕権現(将軍地蔵)
「仏像図彙. 三」(国立国会図書館デジタルコレクション)(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442143)を加工して作成


勝軍地蔵は
「戦勝をもたらす軍神」

として
徳川家康にも崇められていて、


1603年、
家康が江戸幕府を開くにあたり

「愛宕神社」

東京の地、
江戸に創建されました。

本来、馬にまたがる勝軍地蔵様ですが、

愛宕神社の勝軍地蔵は
イノシシに乗っているパターンもあるのだそうで、

ここにも色々な繋がりが見て取れ、
楽しく思いました。

【 白いイノシシ 】


立ち絵に描いたイノシシは普通の茶色っぽいイノシシですが、

SDキャラで描いたイノシシは白色
さらに巨大化しています。

SD 七生天八鈷


これにも由縁があり
簡単ですが少し紹介したいと思います。

白いイノシシは古くから
縁起が良く、神聖な動物とされてきたそうで、

古くは古事記(こじき)の中に記述があり

静岡や山梨など、
富士山周辺や
その他多くの場所にも伝承が残る

「日本武尊」(やまとたけるのみこと)

と関わりがあります。

2022年4月撮影

「日本武尊」(やまとたけるのみこと)は
「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)のエピソードで有名かと思いますが、

駿河の地で火攻めにあった日本武尊(やまとたけるのみこと)は

草をなぎ払い

さらには
迎え火を放って賊を滅ぼしました。

その場所は「焼津」(やいづ)
または
「草薙」(くさなぎ)と呼ばれ
今でも静岡に残る地名になります。

草薙剣はもともと

「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)と言われており、

もとは、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した際、

その尾っぽから見つかったとされる神剣で、

「三種の神器」になります。


日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国を平定した後、
尾張に入り、次の相手として定めたのが

伊吹山(滋賀県と岐阜県の境)に住む神様だったわけですが、

なぜか日本武尊(やまとたけるのみこと)は

草薙剣を持たずに、素手で討伐に向かってしまいます。

これは、己の強さを過信してしまったせいなのか……
確かな理由はわかりませんが、

討伐に向かった日本武尊(やまとたけるのみこと)は

伊吹山の神の怒りにふれ

大氷雨によって病となり、
その後亡くなってしまいます。

この時、病をもたらした存在こそ

「大きな白いイノシシ」

神の使いではなく、
神様そのものとされています。(古事記)

この時、
ヤマトタケルが草薙剣を帯刀していたらどうなっていたのか、

また違った未来があったのか……

などなど、

妄想が尽きることはありません。

静岡県 草薙神社 2022年4月撮影


そして八鈷のお供のイノシシですが、

通常時は茶色で、覚醒時には白色になり
さらには巨大化する能力をもっている、

そんな設定としています。


【 名前などの由来 まとめ 】


名前など様々な由来について

改めてまとめましたので、
さいごに、ざっと紹介していきたいなと思います。

七生天八鈷の創作はまず

「聖数」とよばれる特別な数字
「七」「八」

富士山周辺にある
「最強要素」と組み合わせて

「何とかして名前に入れ込みたい……!!」と思ったのが

一番最初のきっかけになります。

「七生」(しちしょう)という言葉は
仏教に関わる言葉

「仏語」(ぶつご)から来ており、

その意味は

「七度生まれ変わること」

転じて

永遠」「何度でも」
となり、

徳川家康の長寿、健康、忍耐力、学習力などから着想を得て
長く「生」きて天下を取った、

「生」の字と
「聖数:七」

とを組み合わせた名前になります。


つまり八鈷は

肉体的にはほぼ不死身で、
諦めない心の強さも持ちあわせている勝利の神様

となります。


他にも様々な神様から
「最強要素」を取り入れさせていただきました。


中でも
徳川家康が信仰した

陽炎と日光の化身

「摩利支天」

7頭のイノシシに乗っていたとされ、

ここにも聖数(七)
が見て取れます。

「七」
秩序や、完全、全体性を象徴する数字ともいわれ

ラッキー7や七福神など、
縁起のいい数字でもあります。

まさに最強…!!

そして八鈷の「八」

日本書紀古事記はもとより

日本各地の地名や名前などに
とにかくたくさんの記述があり、

末広がりの縁起のよさ、

無限大(∞)

数が多いことや
全体性を表す特別視された数字で

「七」同様、聖数になります。

「八鈷」の「鈷(こ)」の字は

日本にも伝わった密教で使われる
法具の一種で、

もともとはインドの武器を象徴化したものです。

杵(きね)の形をしており、両端には刃がついています。

「金剛杵」(こんごうしょ)
または「ヴァジュラ」とも言われ

「ヴァジュラ」は

インド神話の雷霆神(らいていしん)

「インドラ」が使役する

「雷電」の意になります。


雷のイメージは徳川家康も崇めたとされる
日本神話の建御雷神(たけみかずちのかみ)から派生したもので、

つまり「八鈷」とは
「多くの武器」「多くの雷」を表してします。

さらに
平安時代に編纂された日本霊異記(にほんりょういき)では、

雷神によって授けられた子が怪力を有し、
素手で鬼退治をした話があり

「雷に関わる者は強力な力を持っている」

とされる部分も
最強要素としては見逃せません。

また、武器を持たず素手である理由は、

上述した「日本霊異記」や
静岡浅間神社の力士像などからの連想で、

最古の相撲

雷神 建御雷神(たけみかづちのかみ)

風神 建御名方神(たけみなかたのかみ)によるもので、

人間同士による最古の相撲は

「蹴り合い」
による戦いで勝敗を決したとされています。

また蹴り技

「槍」と例えられることもあり、
「8の字」という静岡銘菓との繋がりで

徳川四天王の一人、
東国最強の武士

「本田忠勝」からもイメージをいただきました。


その他にも、色々な要素が合わさり
「私的最強要素」をふんだんに盛り込んだ神様


それが
「七生天八鈷」になります。


八鈷はその強さゆえ

素早く動くだけで大風を巻き起こしてしまい

周囲に甚大な被害を及ぼしてしまいます。


それゆえに

本来、心根の優しい八鈷は

普段はあまり動かないようじっとして

周りに気を配って暮らしています。


しかし

彼が怒りに満ちた時の破壊力はすさまじく、

対峙して無事に済んだものはいないでしょう。

摩利支天は常に日天の前に先行し、日天を守護しますが、
八鈷も同様に、

何か守るべきもの

つまり

「大切な何かを背中に背負った時」

彼は本領を発揮し、

最強の神様となるのです。


【さいごに】


ここまで
長く雑多な内容になりましたが、

最後までお付き合いくださり
本当にありがとうございました!

当初は制作の過程を公開する予定はなく、

ある意味中二病全開の妄想を垂れ流す内容になり

なかなか恥ずかしいものがありましたが、

こうやって、改めて文章化すると
見えてくることもあって、

また楽しくもあり

やってよかったなと思いました。

最初は「七」と「八」の数字にこだわり、
かつ、

徳川家康公ゆかりの地

静岡浅間神社の

「八千戈神社」(やちほこじんじゃ)からロケハンをスタートしたのですが、

気が付けば、様々な要素に派生してしまい
取捨選択をしながらまとめたことを思い出します。

「八鈷」は私的にはとても好きな神様で、

作品の媒体によっては
主役になれるポテンシャルを持ったキャラクターだと思っています。

なので……

というわけではないのですが


いつかどこかで
八鈷がバリバリ活躍する姿も描けたらいいなーとも思っていて、

まだ、具体的な事は決まっていませんが

「そうなったらきっと楽しい……!」と、
一人妄想にふける次第です。


それでは

だいぶ長くなってしまったので
そろそろ今回の雑記を終えたいと思います。


もし、天地神名シリーズに興味を持っていただけましたら
また見に来てくださるとうれしいです。

それでは!!

個人的に、とてもカッコよく描けたと思うので最後にもう一回


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