天地神名(Unique ancient Japanese Gods) 冥応丸(みょうおうまる) 制作雑記
こんにちは!
はじめましての方ははじめまして!
カワバタロウです!
天地神名シリーズ
第三作目の創作神様は……!!
輪廻(りんね)を断ち切る「放浪神」(ほうろうしん)
「悪因悪果(あくいんあっか)」を執行する
ちょっと怖い神様になります。
彼は死に関わる神様であり、
今回はそういった類の表現が
少なからず出てきますので、
この手の話が苦手だな、と思った方は、
注意して読み進めていただけるとありがたいです。
天地神名シリーズは基本的に
富士山(福慈)周辺の
「地域的要素を取り入れて創作する」
という制作ルールを設けていますが、
今回は例外として
その制約に縛られることなく
自由にイメージし、
「全国を渡る神様」
として創作しました。
細かい要素ですが、
他の神様との違いを表すため、
冥応丸だけ名前の色を変えてデザインしています。
気になった方はぜひopenseaの作品ページを見てみてください。
Kawabatarou U.A.J.G Collection(Unique Ancient Japanese Gods)
https://opensea.io/collection/kawabatarou-uajg-collection
オーナー様と連絡がとれた作品については一部FNDへ移行済です。
https://foundation.app/collection/uajg
言うなれば彼は
「陰徳」(いんとく)の化身であって、
「人知れず淡々と己のつとめを果たす」
そんなイメージの神様になります。
今回の雑記も1、2同様
後追いのものになりますが、
私の好きな要素をたくさん詰め込んだ神様になりますので、
もし、よろしければ
最後まで読んでくださるとうれしいです。
ざっと読んでも
小一時間程度は掛かると思われ、
さらには
前回より少し分かりにくい内容となっており、
「解せぬ…」
と思う点も多々あるかもしれませんが、
そんな中でも
読み終わったあとに、
「楽しい」と思う気持ちが
一つでも残っていてくれたら
とてもうれしく思います……!
それでは、
拙い文章になりますが、
よろしくお願いいたします!!
【 冥応丸(みょうおうまる)】
目に見えぬ神や仏が人知れず感応し、
加護や、ご利益を授けてくれることを
「冥応」(みょうおう)
と呼ぶそうで、
仏教に関わる言葉らしく、
日々の生活の中で、ふと良いことがあり
なにかしらの大いなる存在を
「ふわっ」と感じるような、
そんなイメージを持つ、素敵な言葉です。
「冥応丸」は、そんなありがたい仏語(ぶつご)を冠した存在であり、
読んで字のごとく
「人知れず人々に益をもたらす神様」
との意になりますが、
残念ながら彼は、普通の神様ではありません。
なぜならば彼は
「死者」や「魂」
いわゆる
生者から かけ離れた存在に寄り添う神であって、
普通の人間が生きたまま
彼の加護を賜(たまわ)るのは難しいことでしょう。
彼は常に二つのものを探しています。
一つは
「恨みを持って亡くなった者の魂」
もう一つは
「邪悪」で「慈悲の欠片」もない
「穢れ切った魂」
この二つであり、
これら魂と遭逢(そうほう)し、ただひたすらに救わんと欲するため
彼は人知れず、ひたむきに全国を巡り歩いているのです。
彼の古袴(ふるばかま)がほつれ、
ぼろぼろな風体であるのは、
彼が常に放浪者であり
ひとところに留まる性質の持ち主でないことを表しています。
気が付けば彼は、すぐそばにいて
しかし
気付いたその時にはもう手遅れで、
知覚した邪悪な者に宿る
穢(けが)れた魂を
ことごとく一切のうちに刈り取り、
この世との縁を切り離します。
いわゆる
「死神」的要素を持った神様でもあり、
冥応丸に目を付けられた者は、
たとえ武勇を馳せた強靭な勇者であっても
逃れることは出来ません。
彼に刈り取られた邪悪な魂は
彼の内に取り込まれ
純粋で、ただひたすらに続く
「耐えがたい苦しみの世界」
へと導かれます。
一言で言えば
まさに「地獄」
そう
それこそが彼の国
いわゆる「浄土」であり、
「無慈悲な魂を救う唯一の道理」だと、
冥応丸は信じて疑いません。
【 因あれど 果、なきがごとし 】
日々の生活の中で
このような言葉を耳にすることがあります。
「良い報いが必ず自分に返ってくる。」
「悪い行いをすれば」
「悪い報いが必ず自分に返ってくる。」
仏教的に言えば前者を
「善因善果」(ぜんいんぜんか)(または善因楽果(ぜんいんらっか))
後者を
「悪因悪果」(あくいんあっか)(または悪因苦果(あくいんくか))
と呼ぶそうで、
このような考え方は
「因果応報」(いんがおうほう)と言った方が分かりやすいでしょうか。
この因果応報の考え方は
今の日本においては、わりと普通に受け入れられ、
違和感なく浸透し
広く世間に知れ渡った価値観の一つかと思われます。
(私も好きな考え方の一つです。)
「善いことを積み重ねていけば、いつかきっと自分に返ってくる。」
「悪いことをすれば、必ず自分に戻ってくる。だから悪いことをしない。」
こういった考え方は
私としては、もはや習慣というか
日々の「当たり前」として
行動原理の一つとなっており、
特に疑うこともない
ある種の「法則」になっているのですが、
しかし、
今から2000年ほど前の中国に、
「天道」(てんどう)
という言葉をもって、
因果応報とは少しニュアンスの違う言葉なのかもしれませんが
「本当にそうなのだろうか?」
と、
世の法則に疑問を投げかけた人がいました。
その人は
司馬遷(しば せん)(紀元前145年,135年~紀元前87年,86年)
という方で、
「史記」(しき)という膨大な文字数の歴史書を執筆した
紀元前中国の歴史家になりますが、
司馬遷は自身の著書
「史記」(しき)「伯夷列伝」(はくいれつでん)の中で
このような言葉を記しています。
「 天道是か非か 」(てんどうぜかひか)
この言葉は「史記列伝」の筆頭に提起された
大きな題目の一つともされ、
「史記を完成させた折には八つ裂きにされてもかまわない」
とまで言い放った司馬遷が、
まさに命を掛けて問いかけた
切実なテーマであったことがうかがい知れます。
「伯夷列伝」(はくいれつでん)の主に後半部分の内容を簡単に説明すると、大体このような感じになります。
ある人は言った、
「天の道(天道)は」
「特定の人にだけ親しくすることはなく」
「常に善人の味方である」
と。
伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)
という人は
善人なのか、そうでないのだろうか。
彼ら兄弟は高潔で
徳にかなう行いを積み上げ、
清廉潔白だったのにもかかわらず
流浪の身となり、
山に隠れ住み
山菜を食べ餓えをしのいでいたが
やがて餓死してしまったり、
また、孔子70人の弟子のうちで
顔淵(がんえん)という
とても優れた弟子がおり、
彼は孔子に推薦され
将来を期待されていたのにもかかわらず、
しばしば困窮し
満足に食事をとることもできず
若死にしてしまったりと、
「天が善人に報いてくれるのならば」
「いったいこれはどういうことなのだろうか」
また、他にも
盗賊団の親分、盜蹠(とうせき)は、
毎日罪の無い人を殺して
人の肉をなますにして食べ
あちこち暴れ回っていたのにも関わらず
結局は寿命が尽きるまで生きながらえたり、
道を外れ
ひたすら禁令を犯し続けていても、
一生楽しんで裕福に暮らし
子孫絶えることなく
続いている者がいたりなど、
また、
仕えるべき場所を選んで仕え
言うべきときに発言し、
公正でなければ
怒りを発することがないような人であっても、
災いに遭う例は
かず数え切れないくらいだ。
とし、
司馬遷は世の不合理に非常に困惑し
「いわゆる天の道(天道)とは」
「正しいのだろうか」
「それとも間違っているのだろうか」
(天道是邪非邪)
と締めくくっています。
現代日本においても
「憎まれっ子世にはばかる」
「善人ほど早く死ぬ」
などのことわざ(慣用句?)が
残っていたり、
自分自身もそういった経験を少なからず
してきているので、
「なるほど、そうかもしれない……」
と共感できる点も多々ありましたが、
ただ、「天道」に限った話ではありませんが
科学の発達した今においても
なお解き明かすことのできない謎は多く、
これもそんな「未知」の一つだと思うので、
「心情は大いに分かるけれども……」
「どちらとも言えないなぁ……」
と、最終的には、そう思うに至りました。
因果応報の逆パターンとでも言うのでしょうか
つまり
「善い行いをした者であっても、災いが降りかかる」
ことも、当然あるだろうし、
「悪い行いをした者であっても、幸福が訪れる」
ことも、もちろんあると思います。
このような現象は
世にはたくさんあることで
当たり前と言えば、当たり前なのですが、
因果の道理からすると
「なにかがおかしい……!!」
いや、別に全然おかしくないけど、
「なんかおかしい……!!」
「釈然としない……!!」
という
モヤモヤした気分に苛(さいな)まれるのですが、
仏教的な考え方で因果を見ると
そんなモヤモヤが少し晴れるような気もします。
【 現報道理 】
私はほとんど仏教を知らない人間なのですが、
仏教的な因果の捉え方というのは
まず、
そのスパンがとてつもなく長いそうで、
「前世」(ぜんせ)と呼ばれる
生まれ変わる前の自分が行った「善悪」
さらには
未来生まれ変わるであろう
「来世」(らいせ)のことさえも含んだ
そんな膨大な時間軸の中で
因果の法則が巡り巡るとされるため、
例えば
生前私が「虫」だった時、
その時犯した何らかの悪行が
人間に生まれ変わった今この時代に
降りかかって来ていたり、
例えば
私がいま行った善行が、
5億年後に生まれ変わるであろう
「牛」
の時にもたらされるなど、
こういった道理で因果を見ていくと
すべて説明が付くらしいとか……。
(色々間違っていたらスミマセン……。)
「なるほどこれはスッキリ!」
「問題解決だ!!」
…………
とは、残念ながらならず、
やっぱりなんというか
5億年後
「牛」になった私が仮に
幸せな報いを受けとったとして、
そのありがたさを噛みしめ
反芻(はんすう)することができるのだろうか……?(いやできない)
(牛だけに)
と普通に思うし、
「物質主義」に塗(まみ)れた現代っ子である私としては、
現世で行った善行は
「できれば私が生きてるうちに返って来て欲しい」
と思うのが心情であって、
他にも、
「前世で成された悪行」
が仮に
今生(こんじょう)に訪れ、報われてしまった場合。
その苦しみを
すんなりと受け入れることができるのか……?
―というと
「否!」
「無理!」であって、
たとえ因果の法則は何かを知りつつも
だからと言って、
自分の知らない「前世」という謎の世界からの置き土産として
突如、あずかり知らぬ悪事の清算を求められ、
「因果だからしょうがない」の一言で許容することなど、到底できず
結果それは
忘れる事のない心の傷となり、
一生苦しむことになる場合さえあるでしょう。
私のような俗物であればいざ知らず、
例えば
悪いことなど露(つゆ)もせず、まっとうに暮らしている人達や
身を削り善行を行っている人達。
このような人たちが
突如として無差別な
あるいは意図した悪意に襲われ、
その結果として、本人や周囲の人たちが怪我したり
あるいは命を失ってしまった場合。
それが仮に、前世の悪行による返報であったとしても
「現世に生きる彼らに何の落ち度があったのだろうか?」
と甚(はなは)だ理解に苦しみますし、
もし神様という存在があるのならば
「なぜ、あの人たちを救ってあげないのだろうか……?」
と思い
なんとも身の置き所がない気持ちになることさえあります。
そして同時にやはり
「善行への報いは、本人が生きているうちに」
「悪行への報いは、本人が生きているうちに」
と、考えることもままで、
「正しくこの法則をもたらしてこそ」
「人々の平穏な日常があるのではないか?」
などと、
思ったりもするのも事実です。
つまりは
先の司馬遷さんも
もしかしたら
「現世スパン」で因果を捉えていたからこそ、
「天道是か非か」
という大いなる悩みにぶち当たって
苦しまれてしまったのではないかと、
そんな風に
素人ながらにも思ってしまったのでした。
―とまぁ、
前段が長くなってしまいましたが、
つまり、冥応丸とは
そういった
「現世における因果応報の循環」
を基準とし、
特に「悪因悪果」(あくいんあっか)
を執行する神様として創作した神様で、
「世に為されることのない正義を執行する」存在であり、
これと同じような役割を持つ考え方として
先程も少しだけ触れた、
「地獄」
というものがあります。
彼は打ち捨てられた骸を渡り歩き
浮かばれぬ死者の声に耳を傾けます。
そして、死者の怨嗟を汲み取り
慈悲の心を持たぬ殺戮者の前に突如として現れ、
その穢れた魂を刈り取ることでしょう。
つまり冥応丸とは
ある種
「 地獄が向こうからやって来た 」
的な存在であると
言ってもいいのかもしれません。
【 きっかけの言葉 】
私は「神道」や「仏道」に帰依しているわけでもなく、
毎日熱心に仏像を拝んだり
お経や祝詞(のりと)を一心不乱に唱えることもない、
どこかの統計では約7割にものぼるという
「自称無神論者」
に含まれる日本人の一人だと思うのですが、
それでも
正月や盆暮れ
なにかしらのイベントや季節の行事、
諸々(もろもろ)の節目に神社仏閣を訪ねたり
旅行しながら各地の御朱印(ごしゅいん)を集めたり、
ロケハンで訪れた場所に
由縁(ゆえん)あるお社(やしろ)を見つけたら
必ずお参りするようにしています。
ではなぜ
仏教徒でもなく、神道の信徒でもないのに
「神社仏閣にお参りするのか?」
何故……??
…………と
考えた時に
「…………はて、どうしてだろう……?」
と、すぐに答えることは出来ず
「ずっと昔から当たり前のように続けてきたことだからなあ……」
と屁理屈をこねながら
しばらく、
無い頭をひねってはあれこれと
昔の記憶を掘り下げる作業を繰り返していくうちに
とある一つの言葉が
私の脳裏に浮かびあがりました。
それは―
「お天道(てんとう)様が見ている」
―この言葉になります。
「天道」……
先の司馬遷のくだりにも出てきた言葉ですが
これは、
今回の神様を制作するきっかけになったもので
私的にはとても好きな考え方です。
誰しもが
一度くらいは耳にしたことがあるのでは?
と思うのですが、
最近ではあまり聞かなくなったでしょうか?
私はよく、祖母から言い聞かされていたのを覚えています。
では、なぜこの言葉なのかというと
それは
「神様」という存在が本当にいるかどうかは分からないけれども
日々の生活をしている上で
何かしらに
「見守られてる」
というか
「見られている」
という感覚は
なんとなくあって、
いるか分からないけれど
もしかしたら
いるかもしれない何かしらの存在に対して
「感謝」や「願い」
または
「心の中であれこれと対話」することによって
自分や、自分の周りの人たちが
より一層これからの人生で
「良いことが起きたらいいなぁ……」
とか
「何か、悪いことが起きませんように……!」
と願う
いわば「祈り」のような習慣が
私の中に根付いており
その習慣を育んだ要因はたくさんあると思うのですが
その中でも
この言葉が一番しっくりくるのではないかと思ったからです。
【 おてんとうさまがみている 】
私が小さい頃は
何か悪いことをしたときに
この言葉をもって、周りの大人から
叱られていた記憶がうっすらと残っています。
お天道様とは
いわゆる「太陽」「お日様」の事で
広義では
「神様」という意味もあるのかと思われますが、
元来「天道」とは
天体が通る道のことであり
その動きは規則性を持った
「自然の摂理」であり、
転じて「天の理」(ことわり)
つまりは
「宇宙の法則」的な意味を持った言葉なのだそうです。
天道についての観念は
古くは「日本書紀」(720年)
の頃にはもうすでに日本にあったとされ、
日本書紀 天武天皇 十二年正月の項には
このように記されています。
朕初登鴻祚以来天瑞 非一二 多至之
伝聞 其天瑞者行政之理 協于天道 則応之
自分が皇位を継いだ頃より
天瑞(天のしるし)が多く表れており
一つや二つではない。
伝え聞くところによると
行政の理が「天道」にかなっている時、
こうした天瑞があるという。
と、諸国の国司(こくし)や国造(こくぞう)郡司(ぐんじ)および百姓たちに向けて言われ、
その十日ほど前には、
十一月ごろに発見した
「三本足の雀(すずめ)」(八咫烏?)を
群臣に示されたとあります。(天瑞?)
こういった世の理(ことわり)を見出そうとした動きは、その後も見られ
時は鎌倉時代
お釈迦様の入滅後2000年
西暦1052年に到来したと言われる
「末法の世」(まっぽうのよ)に生き、
4度の天台座主*(てんだいざす)
(*天台宗総本山、比叡山延暦寺の住職及び寺院を監督する役職)
をつとめたという
「慈円僧正」(じえんそうじょう)が記した
「愚管抄」(ぐかんしょう)
という書物には、
初代 神武天皇から84第 順徳天皇までの
長い日本の歴史の移り変わりに内在する
「道理」を
明らかにしようとした姿が残っています。
【 愚管抄 】
愚管抄は七巻から成る書物で
1~2巻は皇帝年代記
3~6巻は歴史叙述
7巻は、どうしたらこの酷い世を立て直せるかなど
慈円僧正の考えや、まとめを書き記した構成となっており、
中でも
末法の世に生きた慈円僧正が
酷く荒れ果てた世の中を見つめ嘆きつつも
総括する場面は、
今だからこそ共感できる点も多く、
とても大昔の他人事、とは思えないような内容になっていました。
愚管抄は、中世の日本で最も重要な歴史書の一つとされ、
たった一人の目で、長い日本の歴史を見続け
そして、たった一人で書き上げた
日本最初の書、ともされるそうです。
摂政や関白と呼ばれる
当時の政治の実権を握っていた役職に任ぜられる家柄に生まれた慈円は、
貴族社会と仏教界の中心にいたことにより
まさに歴史を書く好条件を持ちえた数少ない人だったそうですが、
導き出した正しい道理を、なんとかして広く後世に伝えるため
わかりにくい事柄は省き
一般の無知な人にも
ものの道理を心の底まで教えようとして
あえて「かな文字」で書き記したとのことですが、
そうは言っても、私的には非常に難しい内容で
一度読んだだけではとてもとても……
正直半分も理解できませんでしたが
ところどころ心に染み入る一節が出てきたりと、
とても身になる本だとも思いました。
慈円僧正と同時代に生きた有名人としては
尼将軍こと「北条政子」(ほうじょう まさこ)がいて
慈円僧正とは二歳違いで、同じ年に亡くなっています。
北条政子はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、俳優の小池栄子さんが演じている役になり、
何となく少し身近に感じられるような気持ちにもなりました。
そして話は戻り愚管抄では
道理を説くうえでは、天体などを交えて言及する記述もちらほら見られ、
わかりやすく理(ことわり)を説明しようとした姿が見てとてれます。
「彗星(ははきぼし)」は
世の中が良くなるために起こる災いを知らせる、先触れの現象であると説いていたり、
人間世界の盛衰の理を、月の満ち欠けを用いて説明していたり、
三星合(さんせいごう)と呼ばれる
金星、木星、火星、三つの星が接近して領分を犯しあう現象を
重大な天変ととらえ
大変恐れている様子が記されていたりもしました。
また、「天道」という言葉も見られ、
仏教的な大きな時間の流れにおける法則性と
天体などの法則性とを照らし合わせたり、
怨霊、
または、移り変わる様々な道理などを駆使して
「なぜそうなったのか?」を
導き出そうと苦心する姿がそこにはあって、
800年前に全力で生きた慈円僧正の考えを知ることができ
難しくも、読んで良かったと思える一冊でした。
【 天道思想 】
そして時代はさらにのぼり
戦国時代に入ると、
「天道」に対する考え方は、さらに人々の間でなじみ深いものとなり
「天道思想」(てんどうしそう)
と呼ばれる考えになって
特に、戦国武将たちの間に広まっていったとされています。
個人の行いや、内面を
常に「天道」によって観られ続け、
「正しい心」を持っているかどうかに応じて
天道は人の運命を決定づけ、
不道徳な者には有無を言わさず何らかの報いを与える
「神仏同様の超越的な存在」
として認識されていったそうです。
有名な戦国武将である織田信長や豊臣秀吉に仕えていた
「太田牛一」(おおた ぎゅういち)という武将がいるのですが、
彼は、史料性の高い書物を多く残したことでも有名な人で、
一貫した
「因果応報論」や「天道思想」を持っていたとされています。
牛一の著書の一つである
豊臣秀吉について書かれた、
「大かうさまくんきのうち」(太閤さま軍記のうち)
という著書には、
豊臣秀次や明智光秀、北条氏政など
武将達の最期の様子が綴(つづ)られており、
決まってラストには
「天道おそろしきこと」(てんたうおそろしきこと)
の言葉で締めくくられています。
つまり、彼ら非業の死は
「天道によってもたらされた運命だ」
と、牛一は断じていて、
当時の武将たちが
いかに天道から見放されないようにと願い、
細心の注意を払い、意識して生活していた様子が伺い知れます。
「天道とは、人知では計り知ることのできないもの……」
戦国時代の人々は既に
「天道」についてはこのように感じ取っていたそうで、
何か良いことがあれば、それは
お天道様による
「お取り計らい」だと感謝し、
逆に悪いことがあれば
それは「天命」「運命」として
受け入れたのだそうです。
では、そもそも天道的に見て
「良い行い」とは一体何だったのか。
また、逆に
天道に見放されてしまうような
「悪い行い」
とは一体何だったのか?
これについては
詳しく説明されたものは無いとされていて、
天道を知る手掛かりとしては
戦国武将
「北条早雲」(ほうじょう そううん)
が伝えたとされる家訓
「早雲寺殿廿一箇条」(そううんじどのにじゅういちかじょう)
に、その一端をうかがい知ることができます。
第五条 拝事
礼拝をすることは、身の行いである。
ただ、心を正しく柔らかに持ち
正直を法とし
目上の者を敬い
下の者を思いやり
あるものはあると受け入れ
無いものは無いと求めず
ありのままの心持ちは
神仏の心にかなうだろう。
たとえ、礼拝をせずともこの心持ちがあれば
神明の加護がある。
礼拝をしても、心が歪み
邪(よこしま)であれば
天道から見放されるだろう。
とあり
つまり身を正し、正直で、目上を敬い、目下を思いやり
外見だけの礼拝よりも
内面的な心の歪みがないことが
天道から見放されない条件の一つだったと言うことになります。
他にもこの「早雲寺殿廿一箇条」には
・神仏を敬うこと
・早寝、早起きをすること
・無駄遣いや、無遠慮な態度は慎むこと
・分をわきまえて、質素であること
・身だしなみに注意すること
・礼儀正しくすること
・本を読むこと
・嘘をつかないこと
など
およそ現代においても意識されている内容が多く、
「ここら辺の価値観が今現在でも残っているのかな……?」
とも思いました。
「早雲寺殿廿一箇条」(そううんじどのにじゅういちかじょう)は、
簡潔にまとめられたとても良い家訓だと思うので、
気になった方は是非調べてみると、何か新しい発見があるかもしれません。
話は戻って
「お天道様が見ている」という言葉について、
おそらくこの言葉は
大陸から伝わった仏教や儒教が、
もともと日本にあった神道と上手く結合しながら、上述した「思想」「信仰」として
太古の昔から消滅することなく連綿として受け継がれ、
人々の間で涵養(かんよう)され続けてきたもので
「誰が見ていなくても、お天道様が見ている」
「だからこそ悪いことをするべきではない」
「その報いはいつか、自分に返ってくるから」
もしくは
「誰も見ていなくても、コツコツと頑張る」
「または善い行いをする」
「その報いはいつか、自分に返ってくるから」
となって、
今日に残っているのかなぁと
そんな風に思いました。
また、お天道様については
「お日様」「神様」ではなく
「自分の行為を見つめる、もう一人の自分」
という捉え方もあるそうで、
様々な要因により育まれたもう一人の自分
いわゆる「良心」により
自身の成すことを俯瞰(ふかん)して見つめられ続け
その行為は「善いのか悪いのか?」
様々な行動のたび
良心の声が自分を問い詰め
その選択によっては
失敗もするし、成功もする。
また、
善い結果もあるだろうし、悪い結果もある。
つまりは
自分のしたことは必ず自分に返ってくると覚悟する心持ち
であって
まさに「因果応報」(いんがおうほう)であり、天道との関連性を強く感じました。
「悪行は必ずお天道様(神仏)に見抜かれ、そして裁かれるだろう」
という勧善懲悪にも似た、この価値観を体現したのが
今回の神様「冥応丸」になり、
そして
「お天道様が見ている」という言葉の
もう一方の側面でもある、
「誰にも見られていないけど、ただひたすらに努力(善行)する」姿
つまりは「陰徳」(いんとく)ですが、
これを同時に表現したいとも願い、創作した神様になるのです。
以上、長々と設定というか
一方的な妄想を書き連ねてきましたが、
簡単に噛み砕いて説明すると、冥応丸は
「いつもめっちゃ頑張っているけど、誰にも気づいてもらえない」
そんないたたまれないイメージを背負った
怖いけど、ちょっとほっとけない感じもする神様なのです。
【 善悪と地獄 】
生前悪い行いをして
死後に生まれ変わる世界を「地獄」と呼び、
これも現代において
広く知れ渡った仏教に由来する世界観だと思いますが、
6世紀ごろ、初めて仏教が日本に伝来し、
さらに1世紀ほど後に
日本最古の歴史書
「古事記」が成立したわけですが、
そんな古事記の中に「地獄」の世界観はなく、
似たような世界として
「黄泉国」(よみのくに)がありました。
地獄は
もともと「輪廻転生」(りんねてんしょう)
という生まれ変わりの仏教の教義に基づき、
死後生まれ変わる六つの世界の一つとされ、
劫(こう)と呼ばれるとんでもなく長い時間単位で表され、
果てしなく長い刑期(寿命?)(八大地獄では1兆~300京年ほど?)
が終わるまで
想像を絶した責め苦を受け続ける、
とんでもなく恐ろしい
いわゆる罪を償わせるための
「懲罰世界」(ちょうばつせかい)となります。
絶対に行きたくない場所No,1の地獄ですが、
その条件を見るかぎりは
「蚊」(か)や「蟻」(あり)を殺してもNGらしいので
たぶんほとんどの人が「地獄行きのチケット」
を既に持っている状態かと思います。
対策としては
写経をしたり、念仏を唱えたり、善行を行ったり、煩悩を消したり、
死後遺族に供養してもらうことなどによって
罪が軽くなったり、許されることもあるらしいので、
やれるうちに色々と準備しておいた方がいいのかもしれません。
現代における地獄のイメージとしては
三途の川に、閻魔様(えんまさま)
針の山に、釜ゆで地獄、噓つきは舌を抜かれるなど
おおよそこんな感じだと思いますが、
これは、平安時代
「正しい教えはやがて衰え、滅び、人も世も最悪になる時代がやって来る」
という「末法思想」(まっぽうしそう)の流行からまとめられたとされる
「往生要集」(おうじょうようしゅう)
という仏教書からのイメージが強く、
若干アレンジを加えながら今に残っているのが、現代における「地獄」なのだそうです。
そんな「地獄の集大成」に一役買ったかどうかは分かりませんが、
次は
「往生要集」(985年)が成立されるより以前の説話集、
前回の雑記でも少しだけ取り上げた
「日本霊異記」(にほんりょういき)から、
奈良時代ごろ(5世紀後半~823年頃)の
地獄に関わるお話や、
主に
「悪い報い」についてのお話に触れてみたいと思います。
【 日本国現報善悪霊異記 】
奈良右京 薬師寺の僧、「景戒」(けいかい)という方が
奈良時代以前~奈良時代ごろに
日本の中であったとされる不思議な話を伝え聞き、
それをまとめた書が「日本霊異記」になります。
現存する日本最初の説話集(物語集)とも言われ、その構成は上中下の3巻、
計116話というボリュームで
なかなか読みごたえのある内容です。
現代の文章に慣れてしまったせいか
最初は読みにくさを感じましたが
読んでいくうちに慣れ、
簡潔な表現でどんどんお話が展開する様は
今の作品には無い感覚で、逆に面白く感じました。
編集は平安初期とされ、
成立は810年~824年の間とされており、
その内容は、仏教に関わるお話が多いのですが
中には仏教に関係ない話もあり、
「なにこれ…?!ほぼ18禁じゃん……!!」
的な、お話もあったりと……。
当時暮らしていた人々の生活や
何を願い、何を考えていたかなど
昔の日本の情景をうかがい知ることができ、
見知らぬけど、確かにそこにあったであろう世界に
思いを馳せるきっかけとなる一冊です。
編集の目的については、
奈良 薬師寺の僧「景戒」が序文で記すとおり、
実際に善悪の実例を示すことで
「悪い行いや、悪い考えを改めて、善い行いをしよう」
という
いわるゆる啓蒙書的な役割を願って書かれたものであり、
人々に善悪を判断するための
価値基準を提示した書であるとも言えます。
そして、最終的には
「善をすすめ、ともに極楽浄土に往生すること」
を目的としていたとされ、
したがって
「善い行いをしたので、よい報いがあった話」
「悪い行いをしたので、悪い報いがあった話」
が多く収録され、
タイトルの「現報」にもあるように、
その報いは基本的に「現世」で戻ってくるお話がメインとなっています。
わりとナチュラルに、仏罰で人が亡くなったりする描写もあったりして、
選者である奈良薬師寺の僧「景戒」が捉える
当時における善悪の基準が垣間見え、
現在と比較して驚いたり、また共感したりと、
楽しく読みながらも
自分を見直すきっかけになった本であると、言えるのかもしれません。
……とまあ、また前置きが長くなってしまいましたが
以下、日本霊異記における「悪」と
その「報い」について簡単に触れていきたいと思います。
【 悪行への報い 】
日本霊異記から読み取れる
当時いわゆる「悪」とみなさていた行為は、
おおよそこんな感じになります。
・殺生
・盗み
・借りたものを返さない
・無慈悲
・僧への悪口や迫害
・経をそしること
・親不孝
・詐欺
・仏法への悪口
・邪淫
・寺のものを用いたり、寺のものを食べること
・布施をしないこと
・仏や仏道をけがすこと
・仏道を妨げること
・騙して無理やり貸し付けたり、強引に取り立てること
―となり、
仏教がらみの要素を除けば、おおむね現代においても
「悪」とみなされる行為であることが分かります。
具体的な話としては
例えば「盗み」については、
生前、子どもの「稲」を盗んだ父が
死後「牛」になって生まれ変わり
家の者に使われることで前世の償いをしていたり、
「殺生」においては、
とりわけ、無慈悲な俗人に対して訪れる報いは
躊躇(ちゅうちょ)なく凄惨なもので、
突如、悪性の腫れ物が出来て
苦痛に叫び、わめきながら絶命したり、
なぜか突然
両の眼玉が飛び出し、
それが、煮立った釜の中に落ち
釜ゆでされてしまったりと、
具体的かつ
なんとも恐ろしい描写に
恐怖を抱かずにはいられない内容となっています。
また、「親不孝」への報いは、
すぐさま地獄に落ちる旨、その教訓が文末に添えられ、
僧に対する悪口や、迫害、仏道を妨げるような行いも
軒並み「悪」として描かれており、
日本霊異記が仏教の価値観に根差す書であることが伺い知れます。
俗人が何度も僧をあざけったことにより、口が歪んでしまい
さらには身を投げ出して倒れ、そのまま死んでしまったり、
仏道を妨げ、己の利益のため僧を追い使おうとした者が、
不思議な力で空中に飛びあがり、
その後、空から落ちて死んでしまったりする描写など、
また、
子供が木を削り、遊びで作った仏さまを
馬鹿にして斧で打ち壊した男が
突然倒れ、色んなところから血を流し、
なぜかまた
両の眼玉が飛び出したりなどして
あっというまに死んでしまったりと、
容赦のない有様。
(目玉飛び出しすぎです……)
また、無茶苦茶な暴利で稲を貸し付けたり、
酒に水を混ぜ、売り、
多額の利益を荒稼ぎする描写や、
強引に利子を取り立てる人の記述もあり、
当時そういった悪行に手を染める人がたくさんいたであろうと思わせる様子も伺えました。
日本霊異記における悪行と、それに対する報いは、
おおかた最後は凄惨な結果に終わる印象でしたが、
生き物を助けたり、写経したり、仏道に熱心になることで
罪が相殺され、生きながらえるパターンと、
悪い報いと善い報いの二つが訪れるパターンが見られます。
仏教においては「五戒」という信者が守らなくてはいけない戒律があり
これを
「不殺」「不盗」「不淫」「不妄語」「不飲酒」 と言うそうなのですが、
これらの描写も日本霊異記の頃には既に見られるものでした。
とにかく、一部を除いては仏教の色合いがとても強い書であって、
当時「鎮護国家」(ちんごこっか)という仏教の教義に基づき
国を鎮め、護るといった思想があり、
それが、この書にも色濃く反映されているように見受けられ、
ただそれだけではなく、共感できる点も多々あり、
これらの価値観が少なからず現代にも残っているのかな……?
と感じるような気もしました。
そして日本霊異記には「地獄」の描写もいくつかあり 、
次は少しだけ
日本霊異記における地獄について
触れたいと思います。
【 地獄 日本霊異記版 】
日本霊異記の最初の方に登場する説話において、死後の世界は
「地獄」ではなく
「度南国」
そして
「黄泉」
と呼ばれ登場します。
あの世で責め苦を味わう死んだ妻に訴えられ、とある人は黄泉の国に呼ばれますが、
生前の報いにより死後、壮絶な苦しみを味わうことになってしまった
妻や父の様子を目の当たりにし、
恐怖します。
そして彼はその後 生き返り、
自身が見た死後の世界の様子を書き記して
世間に広めたとされています。
彼の父も数々の悪事を働いた報いとして
さまざまな責め苦を味わっており、
そこは黄泉の国(よみのくに)ではあるものの、地獄(じごく)さながらの懲罰に満ちた世界となっていました。
そこに記述された死後の世界には
大きな河と橋があり、(三途の川?)
その先には度南と呼ばれる国
そして黄金の宮殿があり、「王」がいるとのこと。
王は死後の世界を取り仕切っており
その様子は
まさに「閻魔様」(えんまさま)を連想させますが、
「地獄」という名称はなく
そこは「黄泉」(よみ)であって、
どうしてこうなったのかは分かりませんが
日本神話における「黄泉国」と
仏教における「地獄」の概念が
混ぜ合わさり、折衷(せっちゅう)されたかのような世界観は、
まさに神仏混淆(しんぶつこんこう)を彷彿とさせ、
もしかすると
日本独自の地獄というものが
この時初めて……というか、
何か初期的なオリジナルの
「和製地獄」というものが
この説話に表れていたのかもしれません。
そして同時に、こうやって見ていると、
比べるのも甚(はなは)だ畏れ多くもありましたが、
自分がやっていることをあれこれと考えてみると、
オリジナルの神様を創作するという行為は、
もしかしたら
「これと似たようなことなのかもしれないなぁ……」
とも思い、
なんだか感慨深いものがありました。
そして
日本霊異記に出てくるその後の説話では
悪事を働いた者が死後落ちる世界は
「地獄」と表記されるようになり、
以降は良く見知った地獄の責め苦も見られたりします。
また
「阿鼻地獄」(あびじごく)と呼ばれる地獄も出てくるのですが、
現代の「八大地獄」における阿鼻地獄と比べると、かなりマイルドな責め苦になっている印象でした。
つまりこれは、
先も触れた
「時代とともに地獄が変遷を遂げた証…?」とも見え、
そこには、
その時代ごとに必要とされた
「地獄観」みたいなものがあって
いわゆるそれは懲罰世界になりますが、
悪を諌(いさ)めたり、
救いの無い現状を何とかしようと、また
より良い社会を形成する為に
地獄は活用され、
人々もそれを信じてきたのであろうと
素人ながらに想像するのですが、
物質主義に塗れた今の世においては
地獄の存在を本気で信じる人は
もはや、ほぼいないのでは……?とも思え、
その役目は今や形骸化してしまったのかもしれません。
ただ、それは
ある意味、地獄におびえなくても過ごせるほど、豊かに平和になったということを意味していて、
しかし
相も変わらず「悪」の絶えることはなく、
今の世の中を
奈良 薬師寺の僧 景戒が見たらなんと言うか、
是非話を聞いてみたい……
とも思ったりしました。
さて、話は戻って
冥応丸のコンセプトの一つに
「 地獄が向こうからやってきた 」
というものがありますが、
日本霊異記にも同じように、地獄の方から生者に干渉し、
悪を成した者に報いを受けさせる説話が見られます。
例えば、
当人以外には見えない地獄の火に焼かれ、死んでしまう人や、
突如、見知らぬ謎の兵士がやってきて連れ出され
辺り一面火に覆われた麦畑の中に押し込まれ、骨だけを残して足を焼かれ絶命してしまったりと、
凄惨なものになります。
まさか死んでから行くとされていた地獄が
向こうからやってくるなんて……
当時、悪事を働いていて
一縷(いちる)の良心を持ち合わせていた人がこの説話を読み知った時、
きっと
心穏やかではいられなかったことでしょう。
こういった考え方は、日本霊異記が示す通り
大昔から既にあり
その根底にはおそらくですが、
どんなに清く正しく生きていても
不合理な目に合い続けてしまったり、
個人の努力だけではどうにもならなかった時代や境遇があって、
そして、為されることのない正義の多さゆえ、その実現を望む人が多かったのではないか……
そんな風に思ったりしました。
冥応丸はこういった地獄のコンセプトを背負って生まれてきた神様ではありますが、
さすがに、地獄一色&恐怖一辺倒だけの存在にしてしまうと
単に怖いだけの神になってしまうので、
どこかに可愛げのある要素も取り入れたいとも考え、気を付けて制作した次第です。
こういった思考は古今東西
今も昔も変わりなく、人間ならではの発想というべきなのか、
恐怖の地獄描写をつらつらと書き記した日本霊異記であっても、
一方で
ほっこり(?)するような地獄の説話も見られたりして、
そこにはバランスというか、遊び心が見え隠れしていました。
例えば、
お腹が減って疲れていた閻魔様の使いの鬼が
食べ物をもらい、その恩で相手の罪を許してしまったり、
また、
地獄に連れて行く人がいなくなってしまったので、全然別の人を代わりに連れて行ってしまったりと、
なかなかカオスに富んだ内容で
読み手を飽きさせません。
また似たようなエピソードでは
そういった替え玉作戦を決行するものの
閻魔様にバレ、
なんとか帳尻を合わせようとして
魂と体を入れ替えてしまうなど、
さらなる混沌に満ちあふれた描写が展開され、理解するのに何度か読み返したりもしました。
本来怖いイメージの鬼ですが
なんだか憎めない存在だなあ……とも感じ、
昔の人のユーモアに触れられる貴重な書だとも思いました。
日本霊異記にはこれ以外にも
善因善果にかかわるお話や
不思議なお話がまとめられており、
温故知新(おんこちしん)的な良さがある本だとも思いますので、
気になった方はぜひ一度読んでみてはいかがでしょうか。
【 冥応丸の丸の字は 】
恐ろしい地獄の性質を持つ冥応丸という今回の神様ですが、
いざデザインするにあたり
真っ先に思い浮かべたキャラクターがいました。
それは、
戦後日本の漫画及びアニメを大きく発展させた方であり、
パイオニア、そして第一人者である
「手塚治虫」(てづか おさむ)先生
日本で知らない人を探す方が難しいのではないか?と思われる
そんな大巨匠が描かれた名作の一つ
「どろろ」
その作品に登場するキャラクター
「百鬼丸」(ひゃっきまる)
が、今回の神様に大きく影響しています。
【 どろろと百鬼丸 】
「どろろ」は、それまでの手塚作品とは雰囲気が異なり、
暗く、どろどろとした雰囲気がたちこめた内容で、当時はあまり受け入れらなかったそうですが、
私的には一番好きな作品になります。
どろろの時代背景は室町~戦国という
まさに日本が権謀術数(けんぼうじゅっすう)や、戦いに明け暮れた時代のお話で、
親を亡くした孤児たちが身を寄せ合い、必死に生きようとする様や
戦争によって積み上げられた死屍累々(ししるいるい)の有様は
まさに「地獄」であり、
作中においても
「地獄なんてここよりもっとましな所だ」
的なセリフが飛び出してくるほど
衝撃的な設定でした。
武士の醍醐景光(だいご かげみつ)は天下を手中におさめるため、
とあるお寺で祀られる48体の魔神像に
やがて生まれる我が子を生贄に差し出しすことで、
天下統一の約定(やくじょう)を交わしました。
そして、生まれ出でた赤子は見るも無残な状態で、
体中のほとんどが欠損し、
それは魔神に奪い取られた証であり
無慈悲にも
生まれて幾ばくも経たぬうちに川に流され、
親に捨てられてしまいます。
その後、赤ん坊を拾った寿海(じゅかい)という医者に、
義手や義眼、義足、刀などを与えられ
赤子は「百鬼丸」(ひゃっきまる)と名付けられ、
奪われた自分の体を魔神から取り返すため
「どろろ」という幼い盗人と出会い、
ともに妖怪退治の旅を続ける……。
そんなお話になります。
まさに「地獄」
時代背景もさることながら、
生い立ちも、世間も
倒すべき敵も強大であって、
行く先も、未来も見えず
「救いはいったいどこにあるのだろうか??」
と言わんばかりの様相。
醍醐景光が魔神と契約したお寺も
「地獄堂」という名前であり
各所に地獄が散りばめられた
統一したメッセージのある作品だと思いました。
ただ、そんな地獄にあってこそ
「盗人どろろ」や「寿海」など
作品における「救い」や「光」が随所に見られ、ただの陰鬱な世界で終わらせないところがこの作品の魅力でもあり、
大好きな要素でもあります。
冥応丸の「丸」の字は
「百鬼丸」から連想したものになりますが、
ただの怖いだけの存在に終わらせることなく、「どろろ作品の持つ救いの一面」のような要素も取り入れたいなと思い、
意識して制作にあたったことを思い出します。
(ちなみに私が生まれて初めて描いた同人誌がどろろの本になります。)
【 施餓鬼(せがき) 】
冥応丸は
「穢れ切った魂」を刈り取るため
全国の骸(むくろ)を渡り歩き、
無辜(むこ)の人を殺めた無慈悲な殺戮者の情報を
浮かばれぬ魂たちから
日々、聴き集め回っているわけですが、
道端に打ち捨てられた遺骸(いがい)というものは、
必ずしも誰かの手によって
命を奪われただけではなく、
突発的な事故によるものだったり
病気であったり、
また
食料がなく行き倒れ、亡くなる場合など様々です。
大和時代や奈良時代は交通が不便で、宿泊施設もなく、
野宿するか、せいぜい寺に宿るほかなかったそうで、
病死や餓死など、
道中で亡くなる人が少なくなかったとされています。
冥応丸の性質として、いわゆる
「食を施す」という
「飯キャラ属性」を含ませているのですが、
これは
上述したような道中で亡くなり
誰からも供養されず朽ち果ててしまった無縁仏、
とりわけ
食べるものがなく死んでしまった人たち、
これら「餓えの苦しみに対する救い」として、
「飯があって、苦しんでいる魂があれば施す」
という彼の習性があって、
それは亡くなった人間の魂に限らず
周りの神様に対しても
「飯は食ったか」と、
ご飯をすすめる様子がちょくちょくと見られています。
生前、私利私欲に塗(まみ)れ、
人に施さないで亡くなった人は
餓鬼道(がきどう)という世界に生まれ変わるとされ、
餓鬼になってしまった人は
常に
飢えや乾きの苦しみに苛(さいな)まれると言われており、
こういった人たちや無縁仏など
供養されることのなかった魂に、
食べ物などの施しを行う仏教行事を
「施餓鬼」(せがき)
と呼ぶそうで、
冥応丸はその性質を兼ね備えた神様でもあります。
これは自身が刈り取り、
取り込んだ
「穢れ切った魂」であっても適用され、
すべて彼と関りのある者たちに対して
彼は食を施し、
そして施されたものは
無間(むげん)に続くと思われる地獄の苦しみの中であっても、
唯一、
それらを食べる時だけは苦痛から解放され
邪悪な魂であっても
ひと時の安らぎを得ることができるという、
そんな設定……
……もとい妄想になります。
たまによく
「地獄の釜の蓋(ふた)があいた」という言葉を目にしますが、
災いや、混乱が起こる前兆の意として使われることがあり、
しかしこれは誤用で、
本来の意味はまったくの別物になります。
本来の意味としては
「地獄の休日」
的なイメージの言葉であって、
「地獄の亡者を煮て苦しめる釜の蓋があき」
「鬼であっても休む日」
であることから、
絶え間なく苦しめ続けられる亡者たちも同様に
その日だけは苦痛から解放され、休むことができるのであって、
字面から連想されるような、悪い意味のある言葉ではありません。
日本霊異記にも
阿鼻地獄(あびじごく)において
とあり、
冥応丸が「食を施す」行為は、これに似たものとなります。
また余談ですが、
#4の蚕の神様、甲斐湖ノ白姫(kaiko no shirahime)は、自分でご飯を取ってくることができないので
冥応丸との相性が良く、
いつもご飯を施されている様子が他の神様たちに目撃されています。
【 輪廻転生と浄土的世界 】
輪廻転生(りんねてんしょう)つまり
生物が死んでは生まれ変わり、死んでは生まれ変わりを何度も繰り返すこの考え方は、
現代日本においては、
ゲームや漫画、小説などにもよく見られるテーマで、日本人にもなじみ深いものです。
仏教においては
この「生まれ変わる世界」を六つの領域で定義しており
それぞれを、
天道(てんどう)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
と呼び、
合わせて「六道」(りくどう)としています。
ただ、修羅道については原始仏教において
「その他の世界」に含まれていることもあったため、
六道ではなく五道となり
「五趣」(ごしゅ)
とも呼ばれていたそうです。
仏教においては、この無限に続く生まれ変わりの連鎖を
「苦」
ととらえていて、
たとえ天人に生まれ、享楽(きょうらく)に満ちた生を過ごしたとしても、
その死後は、いかに天道であっても
「輪廻のルールに組み込まれた世界」である以上、
地獄などに生まれ変わる可能性があり、
生まれ変わり先を自分で選ぶことは出来ません。
これら輪廻の循環は、何もしなければずっと繰り返されることから、
仏教では
この不自由な輪廻の苦しみから脱し
安らかな境地に至ることを目指し
お経を唱え、煩悩を消滅させ、悟りを開くのだとされています。
では、晴れて悟りを開き、
輪廻の呪縛から抜け出した人が亡くなったら?
その次は一体どこに行くのか?
…………
それは
「浄土」(じょうど)と呼ばれる世界で
「極楽浄土」(ごくらくじょうど)がとても有名ですが、
清らかで、苦しみが無い世界であり
生まれ変わることも無いとされています。
「浄土」とは仏様が住まわれる清浄な国土を言い、
上記の「極楽浄土」は阿弥陀仏(あみだぶつ)の世界になります。
浄土=極楽 ではなく、
浄土の一つに極楽 があり、
仏様それぞれに浄土が存在するため
その数はめちゃくちゃ多く、
およそ200億以上の浄土があるのだそうです。
(めっちゃ多い……!)
私も勘違いしておりましたが
「蜘蛛の糸」を書かれた「芥川龍之介」も
お釈迦様が極楽にいる描写 を書いてしまったりと、
私を含め、正確に理解している人は少ないのかもしれません。
浄土と対比される世界としては
「穢土」(えど)という言葉があり、
そこは穢(けが)れに満ちた不浄な世界であって
私たちの住む人間世界もこの穢土(えど)に含まれます。
そして浄土は苦しみが一切存在しない世界ですから
昔から地獄と比較されることが多く、
地獄に落ちるのは嫌だから
浄土に行くために念仏を唱えたり、
煩悩を消す為に厳しい修行をして
死後の不安や、苦しみから
少しでも解放されたいと願う人が多かったことが、
仏教を広める一因になったのではないかと思います。
(もちろんそれだけではないと思いますが……!)
ただ、ふと疑問に思ったのは比較される対象で、
本来「地獄」と比較されるべきは
おなじ六道にある「天道」じゃダメだったのかな……?
と無知ながらに思い至り、
浄土はなんというか
「天道を超越した、さらに上にある存在」みたいな印象があって、
もはや比較するべくもない「別次元」の世界だと思い、
そしてさらに
無知なりにあれこれと考えていると、
「天道のさらに上の世界に、浄土というものがあるのならば」
「それならば」
「さらに下」
「地獄よりさらにキツイ、浄土の逆的な」
「地獄を超越した、下の世界ってあるのかなぁ……」
と……
そんな風に思ってしまったものですので、
もしかしたら既にあるのかもしれませんが、
そういった純粋な
「地獄より厳しい浄土的な何か」
に住むとされる
仏教の枠から外れた
そんな神様がいてもいいのかもしれない……
と思い至り、
それからの事は早く、
気づいたら、なんかもう絵が出来上がっていて
それが今回の神様、「冥応丸」となります。
【 五趣の刀(ごしゅのかたな)】
冥応丸は5本の刀を持っていますが、
これは先ほど触れた
「五趣」(ごしゅ)
に対応した刀であって、
天、人、畜生、餓鬼、地獄の刀で、
それぞれを1本ずつ持っています。
冥応丸がそれらの刀を使い、
対応した世界の生物を斬ることで
斬られた者は、
「強制的に輪廻の仕組みから切り離され」
そして、冥応丸の浄土的世界へと導かれます。
地獄における寿命は、天文学的な長さでありますが、終わりがあり
地獄で生を終えた者は、きっとまた輪廻転生し
次の世界へとまた生まれ変わるのだと思いますが、
冥応丸の世界は終わりがなく、
導かれた者は文字通り
永遠に続く苦しみを享受しなければならなくなり、
それはそれは
とても想像ができない程
ものすごく恐ろしい世界になります。(語彙力)
そしてまた、冥応丸自体も
それが「穢れた魂を救う唯一の方法」
だと考えているものですから
色々な意味で恐ろしい神様になるのです。
現世を放浪する冥応丸は、
通常は「人」と「畜生」の刀を携え、
斬る相手によっては
見えない領域から残りの刀を引き出し
事に当たります。
相手がたとえ神であっても
彼から逃れることは出来ませんが、
ただ、斬られる前提として
「穢れ切った魂」でなければならないことから、
よほどの悪事を働いた神様でない限り
彼に狙われることはないと言えるでしょう。
また、彼が興味を持ち、彼の浄土的世界に留め置くのはもっぱら「穢れ切った魂」のみであって、
彼の世界で味わう永遠の苦しみののちに
穢れた魂がたまたま改心し
これまた、たまたま慈悲心なんかが生まれてしまった場合は、
そんな清らかな種が芽吹いた魂を
彼がいつまでも好み続け、
彼の世界に住まわせ続けるかは
甚(はなは)だ疑問と言えるでしょう。
また余談ですが
以上のことを踏まえて考えてみると、
最近よく見かけるようになった無限ループものの作品というのは
なんというか、輪廻転生における苦しみを表しており、
リーディング・シュタイナーを駆使して神の法則に立ち向かい
苦しみに満ちた世界線から
望むべき世界線を手に入れたマッドサイエンティストの某主人公というのは、
ある種、
輪廻の世界から解脱(げだつ)した
仏様と呼べるのかもしれません。(ちがう)
エル・プサイ・コングルゥ
【 鬼 】
冥応丸は自身の肩口に
鬼の髑髏(どくろ)に似た謎の物体を装備していますが、
これは彼が「恨み」、いわゆる
「怨念」(おんねん)に
関わる神様であることを象徴しています。
彼が、全国を渡り歩き
打ち捨てられた骸を探し巡る神であることは
先に何度か触れましたが
ただやみくもにあちこちと探し回っているのではなく、
この「鬼の髑髏」がいわゆる
「妖怪アンテナ」や
「ドラゴンレーダー」的な役割を果たしていて、
死者の怨念を感じ取り、そこを目指し各地を巡る、
という設定……
もとい妄想になります。
(ちなみにこの鬼、しゃべります)
「怨念」(おんねん)とは
「恨みに思う気持ち」であって
誰かからひどい仕打ちを受けて
それを憎む気持ちであり、
それが相当なレベルに達したものだと考えます。
よくよく「死者」と「怨念」は
セットで語られるとこがあり、
ひどい仕打ちの果てに亡くなった人々の恨みの気持ちが、
死後、怨念として残り
天災や疫病など
生者に祟(たた)る描写が過去の書物などに残っていますが、
まれに怨念が強すぎて
生きたま「生霊」(いきりょう / いきすだま)
という存在になり、
祟りを成す記述もあったりします。
こういった恨みにより祟りを引き起こす霊のことを
「怨霊」(おんりょう)と呼び、
古く、縄文時代にはもう
これらを恐れていた兆候があったそうで、
当時の葬法
「屈葬」(くっそう)などに現れているとのことです。
屈葬とは
遺体の手や足を折り曲げて埋葬する方法のことで、
諸説ありますが
有力な説としては
霊をその場に閉じ込め、霊によって引き起こされる
何かしらの災いを防ぐため
だったと言われています。
そして時代はさらに進み
平安時代には、いよいよ怨霊の認知度は増し、
先に取り上げた「愚管抄」(ぐかんしょう)にも多くの怨霊の記述が見受けられます。
有名な怨霊としては
「菅原道真」(すがわらの みちざね)
「平将門」(たいらの まさかど)
「崇徳天皇」(すとくてんのう)
これらお三方の御霊(みたま)を、「日本三大怨霊」と言うこともあり、
現代においてもなお
畏れ崇(あが)め奉られ、
御霊(みたま)を慰め奉る風習が残っているほどです。
その他にも「愚管抄」には
怨霊となった方々の描写があり、
例えば645年、
大化の改新(たいかのかいしん)を成したことで有名な
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
と 中臣鎌足(なかとみ の かまたり)は
乙巳の変(いっしのへん)において
「蘇我入鹿」(そがの いるか)を討ち取り、
入鹿の父である「蘇我蝦夷」(そがの えみし)も
その後、自宅に火を放ち
焼死(自害)してしまいますが、
この
「蘇我蝦夷」(そがの えみし)は死後
「大鬼となった」
との記述が見られ、
後に祟りを引き起こしたと言われています。
(ちなみにこの火事の際、日本古来の重要な文書はみな燃えてしまったそうです……)
斉明天皇(655年~661年)の御代
多くの人々が死んだことにより、これが
「蘇我蝦夷」(そがの えみし)の霊魂による仕業であると語られ、
蝦夷の霊が竜に乗り空を飛んだり、
斉明天皇が崩御された葬儀の折には、
大笠をかぶって歩いていた……
との姿を見た人がいたのだとか……。
他にも「悪霊のおとど(大臣)」
「悪霊左府」(あくりょうさふ)などと呼ばれた
藤原顕光(ふじわらの あきみつ)は
藤原道長(ふじわらの みちなが)を恨んで怨霊になったり、
源氏によって滅ぼされた平家の人々も、
数多く怨霊になったとされています。
冥応丸における肩口の「鬼」要素は
こういった怨霊、恨みを象徴としたデザインであって、
その他にも
地獄の要素に関わる神様であることから、
地獄で亡者に責め苦を味わわせる、
「獄卒の鬼」
のイメージも重ね合わせています。
そして、
兎にも角にも怨みとは恐ろしいものだったそうで、
慈円僧正いわく、
―とされるそうなのですが、
悲しいかなこの道理は、
現代においても、なお変わらぬ一つの道理なのでは……
と思うところもあり、
そこに
「怨霊」と「鬼」の姿を重ね見るのでした。
冥応丸はそういった負のエネルギーを解放し、
または自身の中に取り込むことで、
世のバランスを調整する役割を担った神様であるとも言えます。
【 名前の由来などまとめ 】
「冥応」(みょうおう)とは
「神仏が知らぬうちに感応し、加護やご利益を授ける」ことであり、
その言葉を冠した「冥応丸」(みょうおうまる)は
まさに
人知れず骸を渡り歩き、死者に寄り添う神様であって、
その目的は
「恨みを持って亡くなった死者の魂」と
「穢れ切った魂」
その両者に出会い、救うことにあります。
彼が、
赤心(せきしん)をもって淡々と魂を救い続ける様は、
まさに
「陰徳」の化身と呼ぶにふさわしく、
誰に知られることもなく
また、見返りを求めることもありません。
彼が、無慈悲な殺戮者を処し
邪悪なる魂を刈り取ることで、被害者の魂は救済されますが、
同時に、
刈り取られた「穢れた魂」は
彼の国……
無間(むげん)の苦しみが渦巻く世界へと導かれることになります。
そして、そこで待つ「耐えがたい責め苦」は
「穢れ切った魂を救う唯一の方法」だと彼は信じて疑わず、
これこそが
彼が両者にもたらす加護であり
益であると考えています。
冥応丸は「因果応報」における
「悪因悪果」を正しく執行する神として創作され、
その動機は
「お天道様がみている」という言葉から始まり、
「世に為されることのない正義」を行う神様であって、
その姿は、
いわゆる一つの「地獄」を現しています。
ちょっとした小話にはなりますが
彼の立ち絵を見ていただくと、
背面に何やら丸いデザインが施されているのがわかるかと思います。
これは、実は上述した「お天道様」を表現したものになります。
彼が悪人を探し、徘徊する様は
つまるところ
「 這い寄る地獄 」のようなものであり、
彼に狙われた者は
たとえ神であっても逃れることは出来ないとされています。
彼が持つ「五趣の刀」(ごしゅのかたな)は
一切の衆生を縛る輪廻の鎖を、理(ことわり)から断ち切り、
斬られた者は
強制的に彼の浄土的世界へと導かれます。
その世界とは
地獄よりさらに深いところにあって、なお闇(くら)く、
永遠の苦痛に満たされた国だと言われています。
ただ、彼が施す「食」を口にする時だけは
その苦痛から逃れることができ、
また、穢れた魂が万が一でも改心し
慈悲心が芽生えてしまった場合、
彼が持つ自身の世界にそのような清い魂を
いつまでも住まわせ続ける事などもってのほかで、
やがては追放され
再び輪廻の理へと舞い戻った灰色の魂は、
ともすれば
そのまま地獄へと生まれ変わることになるのやもしれません。
冥応丸の「丸」の字は、
私の大好きな作品
手塚治虫先生の「どろろ」に登場する
「百鬼丸」(ひゃっきまる)から連想したものになりますが、
どろろ作品における
どろどろとした地獄の中における
「救いの光」を
表現したいとも考え、
制作に向かったのを覚えています。
冥応丸が「穢れた魂」を集めるのは、
そもそもが、
悪事への懲罰が目的なのではなく、
彼の持つ「深い慈悲心による」
「救い」のあらわれなのであって、
一貫した「利他行動」になります。
ただ、
「何をもって救いとするか?」
……この考え方が非常に特殊であり、
「常識の枠」からだいぶかけ離れた
斜め上の場所にあるため、
彼の理解者はとても少なく、
結果として倒錯的(とうさくてき)な存在となってしまい、
そして、人々の間に漏れ伝わる
「地獄よりも怖い神」として、
畏怖の対象となったのだそうです。
ただ、神様同士の関係においては
彼は、なかなか慕われている存在で、
人の目に触れることはまずありませんが
神々の前には普通に姿を現し、
わずかながらもコミュニケーションを取る姿が見られています。
宴会や、
なにかしらの行事に参加するよう他の神様から頼まれると、
どんな遠地であっても彼は
必ず100%出席する律儀な性格の持ち主ではあるのですが、
いかんせん
もともと影の薄い性質であるため、
いても気づかれないままお開きになってしまったり、
さんざんな扱いを受けてしまうこともあります。
(ただ、本人はあまり気にしていないようです。)
条件によっては最強の神様と成り得る存在ですが、
有徳の諸神(もろがみ)が
その条件を満たすことはまずありえないため、
彼の実力を知る神様は少ないとされています。
【 さいごに 】
つらつらと、
またダラダラと書き連ね、
当時読んだ本などを
再び読み返したりなどして、
なんとか書きなぐっては推敲(すいこう)し
やっとここまでたどり着きましたが、
なんというか……
結果的にとんでもない時間と、
私的にはとんでもない文字数となってしまったことで、
正直驚いています。
「自称無神論者」を標榜する私にとって
今回ほど神様や
信仰に似た何気ない自身の行動に目を向け直したことはなく、
天道や、神仏の存在を含め
結局のところは
「未知なものは未知である」
と再確認しただけで
その後はとくに広がりを見せることもなく
ただただこうやって、今に至るわけですが、
それでも、改めて見直してみると
設定的にも、ビジュアル的にも
やはり好きだなあと思う神様であって、
描いて(書いて)よかったとも思える
ひと時でもありました。
仏教やその他諸々のことがらについては
自分なりに色々と調べて書いたつもりではありますが、
どこか勘違いしていたり、おそらく遺漏もあるかと思います。
ただ、ここまで目を瞑り読んでくださった方というのは
おそらく、広い心をもっていらっしゃる方だと思うので、
あえて言う必要はないのかもしれませんが、
どうか大目に見てくださると、嬉しいなあと思う所存です。
そして
ここまで長く、身になるかどうかも分からない、
このような駄文にお付き合いくださり
本当にありがとうございました。
それでは、
だいぶ長くなってしまいましたので、
そろそろ終わりにしたいと思いますが
最後に、
お天道様に始まり、お天道様に終わる……
ではありませんが
ここに
慈円僧正が「愚管抄」に書き記した
私の好きな言葉を最後に一つ紹介して
幕引きとさせていただきます。
未知なものは未知であると今しがた書き捨てた数行後に、
こういった言葉を持ってきてしまうのは、
矛盾した私の心の表れであって、
そして
そのことを今回強く思い知らされ、
おそらくは
今後も神社仏閣に訪れる自分の姿は変わらないだろうし、
そして、できる事ならば、
ずっとそれが続いていけばいいなー……
と、
そんな風に思ったのでした。
もし、天地神名シリーズに興味を持ってくださいましたら、
今後も見てくださると嬉しいです。
それでは、
また。
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