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日光道中・奥州道中 その8「水鳥や 千鳥足にて 一里塚 (千住宿)」

 千住の青物市場「やっちゃ場」から宿場町へと街道を進みます。
 その途中で「是より西へ大師道」の道標を見かけました。
 平安時代の初め頃、西暦820年代頃に弘法大師(空海)が観音像と自身の木像を彫り、それらを枯れ井戸に入れて祈願すると清らかな水が湧きだしたという由来が伝わる西新井大師には、古くから詣でる人も多く、この道標のある交差点のほかにも、日光道中から枝分かれして西新井方面に向かう道がいくつかあります。

西新井大師の道標
東京の東側の足立区に「西新井大師」、西側の中野区に「新井薬師」があり、東京の地図を眺めていると混乱しそうになりますが(それは私だけ??)、その二つが対になっているとか、そういう関係はありません。
「西新井」の由来といわれる「弘法大師ゆかりの井戸」が、お堂の西側にあったため、「西」の新たな井戸として「西新井」の名が付けられたという話。

 この近くには、このような案内板も・・・。

大きな盃(というか、大皿?)に酒が注がれます♪
酒合戦、要するに「飲み比べ」「大宴会」??

 江戸時代後期の文化十二年(西暦1815年頃)、千住宿の飛脚宿の隠居の還暦祝いに、人々を集めて「酒合戦」が催されたという話です。
 「酒合戦」には、文人や画家も多く招かれ、その様子が「闘飲記」「後水鳥記」といったタイトルをつけて描かれました。
 「水鳥」の文字、「さんずい」に「酉」と置き換えて「酒」ですね。
 この「酒合戦」にお呼ばれした皆様、合戦を終えた後は、酔い覚ましに千住宿を千鳥足で歩き回ったり、酔いがさめるまで宿場で一泊してから帰ったのでしょうか・・・
(水鳥まみれになり、千鳥の足で千住大橋を歩いて江戸市中に戻るのは、やめておいた方が・・・笑)

 酒合戦の誘惑を振り切って進み(この辺りは、まだ酒場はそんなに多くありませんが)、「千住掃部宿」の案内板のある公園「掃部宿 憩いのプチテラス」へ。
 千住宿が最初につくられた当時は、この辺りはまだ宿場の範囲からは外れていましたが、行き交う人が増えたこともあり、後に宿場に含まれることとなったそうです。

掃部宿の名前の由来といわれる「石出掃部介吉胤」、検索して得た情報によると、鎌倉・室町時代に今の千葉県内に領地をもっていた「千葉氏」の一族という話があります。
いわれてみると、千葉氏の一族が代々の名前に用いた「胤(たね)」の文字が付けられています。

 案内板によると、この辺りは「千住の堤外河原」であったとか、「掃部堤」といった記載がありますので、かつては、この辺りまでも、隅田川(当時は荒川)の水が氾濫する河川敷のような場所が広がっていたのかなと気になりました。

掃部宿 憩いのプチテラス
酒樽のようなものは、ここで毎年開催される「酒合戦」に使われる樽容器・・・ではなく、隣の屋根に降った雨水を集める「雨水貯留タンク」です。
飲み水ではないと明記されています。

 そして、大きな道を渡る交差点のところ、歩道の植え込みに隠れた少しわかりにくいところで「一里塚」跡の碑を見つけました。

一里塚跡
探すのに少し苦労しました(笑)
一里塚から道路を隔てて、千住宿の中心となる商店街のアーチに迎えられます。

 一里塚を見つけて、道路の向かい側の街道へ。
 ここからは、「元祖 千住宿」のような存在の、千住宿が開設された当初から宿場町が設けられていた街道沿いの商店街、今の「千住一丁目」「千住本町商店街」へと入ります。


 

 

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