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伊藤博文の満洲旅行関係件 7

機密 号外
                                                              <明治 四十二年十月 二十五日>
                                                                     在奉天 総領事 小池張造 *
                       外務大臣 伯爵 小村壽太郞 宛
伊藤公爵の今回の満洲巡視については、北京政府においても多大な注意をし、特に旨を督撫に授けたものと見られる。去る十五日に督撫は本官と會見時に、地主の誼を尽くすために公爵の奉天滞在中は万事の接待を総督側で引き受けようとの旨を話して来た。そのため、本官は直ちに門司に電報し、公爵の意向を問い合わせたところ、旅舘等の準備はすでに我方で準備したので、督撫の好意を 深謝するところであるが、うまく 謝絶する旨の返電あったので、其旨を先方に伝達した。しかれども、督撫は地主の地位にあるから公爵のような名士の來遊に際して充分な厚誼を尽くすことができなければ安心できない次第であるから、必ず接待をするよう重ねて本官の配慮を願うと言った。それゆえ、本官は公爵の大連着を待って、直ちに右の趣旨を伝達したところ、再三の好意を辞譲するの難しい次第であるから、督撫の接待を請うようにしたい旨の回答に接した。督撫側では此の回答を得て、極めて満足の意を表し、當地においては本官が今日までに見聞したことがない程度の準備をして公爵の着奉を待った。公爵は予定通り去る二十二日夕刻に當地着き、両国官民の熱誠なる歓迎裡に、名義上総督の側で旅館として準備した満鉄公所に入り同所において総督・巡撫以下、大官の出迎を受けて、続いて翌二十三日公爵は右の答礼をして、督撫を奉天省公署に訪問した。普通人事後 督撫は 別室で公爵と談話しようという旨を話し、 公爵は此に応じて彼等と約二時間余の会談をした。
その要領として公爵が本官に話したところは、大体、次の通りである。
(鄭書記官から聞いたところによれば、公爵は同書記官に命じて右会談の摘要を記録して貴大臣の覽に供する予定であったものである)
督撫は目下の諸懸案を解決するにあたって公爵の尽力を求めようという意思があったようで、鐵道附属地においての課税問題、警察権執行問題等を提起し、公爵の意見を求めようとした。公爵はこれらの問題はそれぞれ当局者間の協議によって解決しなければならないものであるとし、自己はこの解決方法について意見を陳述する地位にあるわけではないと対答した。(以下、伊藤の意見)まず、問題の処分に関する当事者の渦中に巻き込まれることを避けねばならない。そして、要するに諸懸案はすべてがまちまちの問題であり、大局に関わるものではない。日清両国の当事者において実に東亜の大局に鑑みて、日清両国の国際交誼を回顧するならば、その解決は決して困難なものではないと信じる。要は当局者において大局の形勢を看取して、誠意をもって両国の親交維持に努力ことである。当事者としてその精神がるならば、懸案解決の困難は決して憂慮するものではないのである。自己は清国当局者に対しても忠告すると同時に、必要ならば日本の為政者にも忠告する。自己の話すことは日本人であることを離れての言葉である。清国においては近ごろ頻繁に利権回収を云々するが、右に利権を収めて、左にこれを失うが如きことがあれば、利権回收も何等の効果がないのである。利権を守るには国家に実力がなくてはならぬ。実力というのは兵力を言うのではない。 財力と国家の組織を言うのである。国家の組織が充実し、 財力が確固としていなければ、如何にして利権を守ることができようか。清国は治外法權において、(あるいは)関税において、その他、重要な事項について利権を失なったものが多々ある。まずこれらを回收することができずに細々した問題について利権の回収を云々しても何等の効果がない旨を督撫に対して陳述したとのことである。
巡撫はまた安奉線問題について帝国総領事の権限が甚しく限定されており、交涉上すこぶる不便を感じた旨を述べ、同問題に関係する十個条の条件が奉天で協議[協商]されており、鉄路を広軌に変更することには清国ではすでに同意を表したにもかかわらず、総領事の権限においては欠如された点があり、ついに北京で自由行動を取る旨の通牒を発せずにいられない(状態に)至ったことは甚だ遺憾であると考える旨を述べたが、公爵はこれに対しては格別な答えを与えなかった模樣である。
公爵は以上をもって会談の要領として本官に話し、また現今の諸懸案の狀況も問議するに対して、本官はその大要とあわせて本官の意見も開陳したところ、公爵は本官の意見と本官が今日まで取ってきた方針で、至極、適當なものと認定すると陳述したのち、鉄道附属地の行政権問題については、最も深く露国の態度を硏究する必要がある。日本に如何に強硬な主張を維持しても露国では清国に対して料外に交譲の態度に出てくるとすれば、日本の所為は 単に世間の嗤笑を招來するに過ぎなくなる。 故にこのたび自己は哈爾賓で露国蔵相と会見して、敦篤に露国の態度も探知した後に、 わが意見を定めたい。要するに今日満洲においての日本の行動および 日本の行政組織には無理ところがすこぶる多い。附属地課稅問題の如きは、清国が言うところは特に酌量することだと考えられる。また、関東都督府が関東州外に行政権を執行しているようなことは不当な制度だと思われる。その改正を自己が話すのが得策ではないかというのはすこぶる疑問である。満洲において日本人が博場を黙認で設置するようになっているようなことは満洲における日本の無理な行為の一例である。断然、速かに禁止しなければならない。帰朝後に当局者に忠告をする。上からの威圧手段で清国に臨む時代はもはや終わった[経過]のである。今日はドイツの発明である清国人懷柔簿絡政略を各国で取っていることから、日本だけが大言壯語者流の所言に駆使され、上から威圧する[高手]政策を取ろうとするときには、ついに重大な失敗を招來することにな云々と話した。以上、公爵の談話および意見は出発前夜に 特に本官だけに知らせたものであるから、そのことを存知いただきたく願いつつ、ここに内報する。
敬具

* 「小池張造」『国史大辞典』吉川弘文館
小池張造 こいけちょうぞう 1873~1921
 明治・大正時代の外交官。1873年(明治6年)2月8日福島市に生まれる。父は茨城県士族小池友謙、母はツネ。1896年(明治29年)帝国大学法科大学政治学科卒業、同年外交官試験に合格し外務省に入った。同期合格者に幣原喜重郎がいる。外交官補としてはじめ朝鮮に在勤したが、ほどなく英国在勤に転じ、ここで公使加藤高明に認められ、1900年(明治33年)に加藤が外相に就任するとその秘書官を勤めた。1901年に清国、1902年に英国在勤を経て、1906年末以降ニューヨークおよびサンフランシスコに在勤し、総領事として排日的風潮の昂まる中で積極的に日本文化の紹介、対日理解の増進に努めた。1908年奉天総領事、1911年三たびロンドンに在勤し、1913年(大正2年)二年10月、暗殺された阿部守太郎の後任として外務省政務局長となり、1916年11月に至る3年間外交機務に参与、加藤外相のもとではその絶大な信任を得ていわゆる対華二十一箇条要求の原案作成にあたり、また中国第三革命に際しては袁世凱帝政阻止・第二次満蒙独立運動の黒幕的主導者の一人であったが、第二次大隈内閣が総辞職したのち官を辞し、実業界に入り1921年(大正10年)2月25日病没した。49歳。東京の雑司ヶ谷墓地に葬られる。
[参考文献]
栗原健編著『対満蒙政策史の一面』、小幡酉吉伝記刊行会編『小幡酉吉』、広田弘毅伝記刊行会編『広田広毅』、黒竜会編『東亜先覚志士記伝』中・下、八角三郎『思い出ずることども』、重光葵『巣鴨日記』
(馬場 明)

------< 原文 >------
機密 號外
                                                     <明治 四十二年(一九◯九) 十月 二十五日>
                                                                  在奉天 總領事 小池張造
                       外務大臣 伯爵 小村壽太郞 앞
伊藤公爵 今回의 滿洲巡視에 對하여는 北京政府에서도 多大한 注意를 하고 特히 旨를 督撫에게 授한 것으로 보여 去十五日 督撫는 本官과 會見時 地主의 誼를 다하기 爲하여 公爵의 奉天 滯在中은 萬事의 接待를 總督側에서 맡고자 하는 旨 말하여 왔으므로 本官은 直時 門司에 電報하여 公爵의 意嚮 及 問議한 바 旅舘 等의 準備는 이미 我方에서 準備하였으므로써 督撫의 好意를 深謝하는 바이나 잘 謝絶할 旨 返電이 있었으므로 其旨를 先方에게 傳達하였던 바, 그러나 督撫는 地主의 地位에 있으므로 公爵과 같은 名士의 來遊에 際하여 充分한 厚誼를 다하지 못하면 安心치 않은 次第이므로 꼭 接待를 할 수 있도록 거듭 本官의 配慮를 바란다 하여 本官은 公爵의 大連着을 기다려 直時 右 趣旨를 傳達하였던 바, 再三 好意를 辭讓하기 어려운 次第이므로 督撫의 接待를 請하도록 할 旨 回答에 接하였다. 督撫側에서는 此 回答을 得하고 極히 滿足의 意를 表하고 當地에 있어서는 本官의 今日까지에 見聞한 바 없을 程度의 準備를 하여 公爵의 着奉을 기다렸다. 公爵은 豫定대로 去 二十二日 夕刻 當地着 兩國 官民의 熱誠한 歡迎裡에 名義上 總督側에서 旅舘으로 準備한 滿鐵公所에 들어 同所에서 總督·巡撫 以下 大官의 出迎을 받고 이어 翌二十三日 公爵은 右의 答禮를 爲하여 督撫를 奉天省公署로 訪問하였다. 普通人事後 督撫는 別室에서 公爵과 談話하고자 하는 旨를 말하여 公爵은 此에 應하여 彼等과 約二時間餘의 會談을 하였다.
其要領이라 하여 公爵이 本官에게 말한 바는 大體 다음과 같다.(鄭書記官으로부터 들은 바에 依하면 公爵은 同書記官에게 命하여 右會談의 摘要를 記錄케하여 貴大臣의 覽에 供케할 豫定이었다는 것이다.) 督撫는 目下의 諸懸案을 解決하는데 있어서 公爵의 盡力을 求하고자 하는 意思가 있었던듯 鐵道 附屬地에 있어서의 課稅問題 警察權執行問題 等을 提起하고 公爵의 意見을 求하고자 하여 公爵은 此等 問題는 各各 當局者間의 協議에 依하여 解決해야 할 것으로 自己는 此의 解決方法에 對하여 意見을 陳述할 地位에 있는 것이 아니라고 對答하여 于先 問題의 處分에 關한 當事者의 渦中에 말려들 것을 避한 後, 要컨대 此等 諸懸案은 모두 區區한 問題로 大局에 關한 것이 아니다. 日·淸 兩國의 當事者에 있어서 참으로 東亞의 大局에 鑑하여 日·淸 兩國의 國際交誼를 回顧하는데 있어서는 其解決은 決코 困難한 것이 아니라고 믿는다. 要는 當局者에 있어서 大局의 形勢를 看取하여 誠意로 兩國親交의 維持에 努力하는데 있다. 當事者로서 此 精神이 있다면 懸案解決의 困難은 決코 憂慮할 것이 없을 것이다. 自己는 淸國 當局者에 對하여도 忠告함과 同時에 必要하다면 日本의 爲政者에게도 忠告하겠다. 自己의 말하는 바는 日本人이라는 것을 떠나서의 말이다. 淸國에서는 요즈음 頻繁히 利權回收를 云云한다고 하나 右에 利權을 收하여 左에 此를 失함과 如한 것이 있다면 利權回收도 何等의 効果가 없을 것이다. 利權을 守함에는 國家에 實力이 없어서는 안 된다. 實力이라 함은 兵力을 말함이 아니다. 財力과 國家의 組織을 말하는 것이다. 國家의 組織이 充實하고 財力이 確固치 않으면 如何히 하여 利權을 守할 수 있겠는가. 淸國은 治外法權에 있어서 關稅에 있어서 其他 重要한 事項에 對하여 利權을 失한 것이 多하다. 于先 此等을 回收하지 않고 區區한 問題에 對하여 利權의 回收를 云謂하여도 何等의 効果가 없을 旨를 督撫를 對하여 陳述하였다 한다.
巡撫는 또한 安奉線問題에 對하여 帝國 總領事의 權限이 甚히 限定되어 있어서 交涉上 頗히 不便을 感하였다는 旨를 述하고 同問題에 關聯된 十個條의 條件이 奉天에서 協商되고 있어서 鐵路를 廣軌로 고치는 것에는 淸國에서는 이미 同意를 表하였음에도 不拘하고 總領事의 權限에 있어서는 缺如된 點이 있어서 드디어 北京에서 自由行動을 取할 旨의 通牒을 發하지 않을 수 없기에 至하였음은 甚히 遺憾으로 생각하는 旨를 述하였으나 公爵은 此에 對하여는 格別한 答을 與하지 않았던 模樣이다.
公爵은 以上으로써 會談의 要領이라 하여 本官에게 말하고, 또 現今 諸懸案의 狀況도 問議한데 對하여 本官은 其大要와 아울러 本官의 意見도 開陳하였던 바 公爵은 本官의 意見과 本官이 今日까지 取하여온 方針을 가지고 至極히 適當한 것으로 認定한다고 陳述한 후, 鐵道附屬地 行政權問題에 對하여는 가장 깊이 露國의 態度를 硏究할 必要가 있다. 日本에서 如何히 强硬한 主張을 維持하여도 露國에서 淸國에 對하여 料外로 交讓의 態度로 나온다고 한다면 日本의 所爲는 다만 世間의 嗤笑를 招來하는데 不過할 것이다. 故로 此次 自己는 哈爾賓에서 露國 藏相과 會見하고 敦篤히 露國의 態度도 探知한 後 我意見을 定하고 싶다. 要컨대 今日 滿洲에 있어서의 日本의 行動 及 日本의 行政組織에는 無理한 곳이 頗多하다. 附屬地課稅問題와 如함은 淸國이 말하는 바는 特히 酌量할 것이라고 생각된다. 또 關東都督府가 關東州 外에 行政權을 執行하고 있는 것 같은 것은 不當한 制度라고 생각되나 其改正을 自己가 말하는 것이 得策이냐 아니냐는 것은 頗히 疑問이다. 滿洲에서 日本人이 賭博場을 黙認 設置케 하는 것 같은 것은 滿洲에 있어서의 日本의 無理한 行爲의 一例이다. 斷然 速히 禁止하지 않으면 안된다. 歸朝後 當局者에게 忠告를 하겠다. 高手的 威壓手段으로써 淸國에 臨할 時代는 이미 經過하였다. 今日은 獨逸의 發明인 淸國人懷柔簿絡政略을 各國에서 取하고 있으므로 日本만이 大言壯語者流의 所言에 驅使되어 高手政策을 取하고자 할 때에는 드디어 重大한 失敗를 招來하게 될 것이다 云云하였다. 以上 公爵의 談話 及 意見은 出發前夜 特히 本官만 알라 하고 말한 바이니 그리 알기 바라면서 玆에 內報한다.
敬具

国史編纂委員会『韓國獨立運動史 資料7』1983年, 3~5ページ.

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