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伊藤博文射殺後の安重根関連略年譜

安重根の年譜を準備中なのですが、取り急ぎ、伊藤博文射殺後の略年譜を公開します。随時、アップデートしていきます。
主として尹炳奭編訳(2011)『安重根文集(韓国独立運動史資料叢書 第28輯)』独立紀念館韓国独立運動史研究所を参照し、適宜、追加しました。

■1909年10月26日
 午前9時30分にハルピン駅で安重根が伊藤博文を射殺する。
■1909年10月26日
 安重根がハルピン駅構内でロシア官憲の調査を受ける。
■1909年10月26日
 午前11時35分にロシア当局が安重根を日本官憲に引き渡すと決定。
■1909年10月26日
 午前11時55分に蔡家溝に居た禹德淳と曺道先が逮捕される。
■1909年10月27日
 小村寿太郎外相が安重根裁判を関東都督府で行うよう指示する。
■1909年10月27日
 「大韓毎日申報」が安重根義挙を国内で報じる。
■1909年10月28日
 伊藤博文銃殺事件に関する書類と証拠物件がハルピン総領事館から関東都督府地方法院に送付される。
■1909年10日30日
 溝渕孝雄検事がハルピン総領事館で安重根に対する第1回訊問を行う。訊問の中で安重根が伊藤博文銃殺の理由15ヵ条を答える。
■1909年11月1日
 安重根ほか9名が旅順に向かう。
■1909年11月3日
 安重根ほか9名が関東都督府旅順監獄に収監される。
■1909年11月3日
 外務省政務局長の倉知鐵吉が旅順に到着する。
■1909年11月4日
 東京で伊藤博文の葬儀が挙行される。
■1909年11月6日
 安重根が旅順監獄で「韓国人安應七所懐」と「伊藤博文罪悪」を獄吏に提出する。
■1909年11月8日
 小村寿太郎外相が安重根に日本の刑法を適用するよう指示する。
■1909年11月14日
 溝渕検事が安重根に対する第2回の訊問を行う。
■1909年11月15日
 溝渕検事が安重根に対する第3回の訊問を行う。
■1909年11月16日
 溝渕検事が安重根に対する第4回の訊問を行う。
■1909年11月18日
 溝渕検事が安重根に対する第5回の訊問および禹德淳・劉東夏に対する対質訊問を行う。
■1909年11月19日
 溝渕検事が参考人として安重根の弟の安定根に対する訊問を行う。
■1909年11月20日
 溝渕検事が参考人として安重根の弟の安恭根に対する訊問を行う。
■1909年11月22日
 朝鮮総督府の境喜明警視が旅順監獄に派遣され訊問を開始する
■1909年11月26日
 溝渕検事が安重根に対する第7回の訊問を行う。
■1909年11月26日
 境喜明警視が安重根(第1回)と禹德淳(2回目)に対する訊問を行う。
■1909年11月27日
 境警視が安重根に対する第2回の訊問を行う。
■1909年11月29日
 境警視が安重根(第3回)と禹德淳(第3回)の訊問を行う。
■1909年12月1日
 境警視が安重根(第4回)・禹德淳(第4回)・鄭大鎬(第3回)を訊問。
■1909年12月1日
 ロシア弁護士ミハイロフが安重根と面談し弁護届を提出する。
■1909年12月1日
 イギリス弁護士ダグラスが弁護届を提出する。
■1909年12月2日
 小村外相が倉知政務局長宛に安重根は極刑に処すが相当との電報を送る。
■1909年12月2日
 境警視が安重根(第5回)と禹德淳(第5回)に対する訊問を行う。
■1909年12月3日
 小村外相が倉知政務局長宛に外国人弁護士は不都合との電報を送る。
■1909年12月3日
 境警視が安重根に対する第6回の訊問を行う。
■1909年12月4日
 境警視が安重根(第7回)と禹德淳(第6回)に対する訊問を行う。
■1909年12月5日
 境警視が安重根に対する第8回の訊問を行う。
■1909年12月6日
 境警視が安重根に対する第9回の訊問を行う。
■1909年12月9日
 境警視が安重根に対する第10回の訊問と劉東夏に対する対質訊問。
■1909年12月10日
 境警視が安重根(第11回)と曺道先(第4回)に対する訊問を行う。
■1909年12月11日
 境警視が安重根に対する第12回の訊問を行う。
■1909年12月13日
 安重根が「安應七歴史」の執筆を開始する。
■1909年12月16日
 境警視が安定根・安恭根に対する訊問を行う。
■1909年12月20日
 溝渕検事が安重根に対する第8回の訊問を行う。
■1909年12月21日
 溝渕検事が安重根に対する第9回の訊問を行う。
■1909年12月21日
 境警視が安重根に対する第13回の訊問を行う。
■1909年12月22日
 溝渕検事が安重根に対する第10回の訊問を行う。
■1919年1月26日
 溝渕検事が安重根に対する第11回の訊問を行う。
■1919年2月1日
 溝渕検事が安重根ら4被告の公判請求書を関東都督府地方法院に提出。
■1919年2月1日
 関東都督府地方法院の真鍋十蔵判官がミハイロフとダグラスの弁護届を
不許可とする。
■1919年2月1日
 安秉瓚弁護士と安定根・安恭根兄弟が安重根と面会する。
■1919年2月1日
 この日から2月6日まで境警視が安重根に対する訊問を行う。
■1910年2月7日
 関東都督府地方法院刑事法廷において第1回公判(非公開)が開かれ審理
が始まる。
■1910年2月8日
 第2回公判(非公開)
■1910年2月9日
 第3回公判(非公開)
■1910年2月9日
 ダグラス弁護士がヤマトホテルで裁判の不当性について記者会見を開く。
■1910年2月10日
 第4回公判(公開)。溝渕検察官が安重根に死刑、禹德淳と曺道先に懲役
2年、劉東夏に懲役1年6ヶ月を求刑する。
■1910年2月12日
 第5回公判(公開)。弁護人の弁論と被告人の最終陳述が行われる。
■1910年2月14日
 第6回公判(公開)。判決の言い渡し。
■1910年2月15日
 安重根が安秉瓚弁護士を通じて同胞たちに遺言を伝える。
■1910年2月17日
 安重根が平石氏人高等法院長と面談し「聴取書」として記録される。
■1910年2月17日
 安重根が「東洋平和論」の執筆を始める。
■1910年3月7日
 ウィレム神父(韓国名・洪錫九)が旅順に到着する。
■1910年3月8日
  ウィレム神父が安恭根らを帯同して安重根と面会する。
■1910年3月9日
 ウィレム神父が安重根と2回目の面会をする。
■1910年3月10日
 ウィレム神父が安重根と3回目の面会をし、終油の聖事を執り行う。
■1910年3月11日
 ウィレム神父が安重根との最後の面会をする。
■1910年3月15日
 安重根が「安應七歴史」を脱稿する。
■1910年3月18日
 この頃に「東洋平和論」の「序言」を完成させる。
■1910年3月24日
 安重根が遺書6通を書き上げる。
■1910年3月25日
 安定根と安恭根が水野・鎌田両弁護士と面談する。
■1910年3月26日
 午前10時04分に安重根の死刑が執行され、共同墓地に埋葬される。
■1910年3月26日
 安定根と安恭根が安重根の遺骸引渡を要求、監獄当局から拒否される。
■1910年3月28日
 満洲日日新聞が安重根公判記録を発行する。
■1910年4月2日
 安重根崇慕会がウラジオストクの韓人たちによって開催される、

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