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安重根所懐

底本は『亜洲第一義侠 安重根2』529ページ。
( )内は勝村が補った語句、[ ]内は原文の語句。
注記はすべて「*」で示し、テキスト末尾に一括で示す。  
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             明治四十二年十一月六日午後二時三十分提出 
韓國人安應七所懐
 天は万民[蒸民*]を生み、天下[四海*]の人びとをみな兄弟とします。各々が自由を守り、生を好み、死を厭うのが普通の心情[常情*]です。今日、世の人はつねに[例]文明時代と称しています。しかし、私はひとり「そうではない」と長嘆しています。そもそも文明は、洋の東西はもちろん、賢愚、男女、老少(を問わず) 、各々が天賦の性を守り、道徳を重んじ[崇常]、競い争い相うことの無い心で、安らかに暮らし愉快に働き[安𡈽楽業]、ともに太平を享すること、これを文明というべきでです。
 (ところが)現今の時代はそうではありません。いわゆる上等社会の高等人物が論じるのは、競争の説であり、究まるところは殺人機械です。ですから世界中[東西洋六大州]に砲煙と弾雨が絶える日が無いのです。どうして慨嘆せずにいられるでしょうか。今に到って東洋の大勢は、これを言うならばすなわち、恥ずべき状態[慙状]がもっとも甚だしく、まことに[真]に記し難いことです。
 いわゆる伊藤博文は、いまだに天下の大勢を深く考えること[深料]ができず、残酷な政策を濫用しています。東洋の全幅が将来に魚肉の場(となること)を免じます。ああ、天下の大勢の将来を深く考える[遠慮*]ならば、有志の青年らは、どうしてすすんで[肯]手をこまねき[束手]、策も無く、坐して死を待つことができるでしょうか。この私[漢]はこう思ってやまぬ[不已]がゆえに、ハルピンの公衆の面前[万人公眼之前]で一砲し、伊藤老賊の罪悪を公然と批判し[聲討*]し、東洋の有志の青年たちの精神を目覚め[警醒*]させようとしたのです。

【注記】
* 蒸民:『詩経』(大雅)の「蒸民」に「天生蒸民」(天は常民を生む)との句がある。
* 四海:『論語』(顔淵第十二)に「四海之内 皆兄弟也」との句がある。
* 常情:小学館『中日辞典 第3版』によれば「一般的な心情・情理、人情の常」を意味する。
* 遠慮:同じく「先々のことを深く考える」ことを意味する。
* 聲討:同じく「糾弾する、(罪状を)公に非難する」を意味する。
* 警醒:同じく、「悟らせる、目覚めさせる」ことを意味する。

【解説】
 大韓帝国の独立運動家で義兵将(大韓義軍参謀中将)であった安重根は、1909年(明治42年)10月26日に中国東北部のハルピン駅のプラットフォームで伊藤博文を射殺した。安重根はロシア兵に捕らえられ日本側に引き渡され、11月1日に旅順監獄(関東都督府監獄署)に収監された。
 この文書は収監からわずか5日後の11月6日に、安重根が旅順監獄内で獄吏に提出した文書を旅順監獄側で清書したものである。注記を確認していただけると、安重根の教養のベースが伝統的儒教思想にあることがよく見て取れるだろう。
 この文書は、当時旅順に出張中だった外務省の倉知鐵吉政務局長の名義で、小村寿太郎外務大臣に送付された書類に「伊藤博文罪悪」(安重根が伊藤を射殺した理由を15項目に整理して列記した文書)とともに添付されていた。「伊藤博文罪悪」の内容は安重根が10月30日に溝渕孝雄検察官の第1回尋問を受けた時に語ったいわゆる「伊藤博文一五の罪悪」(この note で紹介済み)とは若干の異同がある。安重根がなぜ15という項目数にこだわったのかは不明であるが、7日の間により思考が整理されているように読み取れる。小村寿太郎と倉知鐵吉はこのニつの文書の内容を確認した時点で、すでに、安重根事件の動機と背景、そして安重根の人物像をつかんでいたわけである。
 原文は外務省外交史料館に所蔵されている簿冊「伊藤公爵満洲視察一件 別冊(伊藤公遭難ノ際 倉知政務局長 旅順ヘ出張 竝ニ犯人訊問ノ件)」のなかに綴られている。この簿冊全11冊中の6冊が1995年に韓国で発行された史料集『亜洲第一義侠 安重根』に収録されている。上記のテキストは國家報勲處編, 1995, 『亜洲第一義侠安重根2』:529.を底本として勝村が翻刻し、現代日本語に書き改めた。

勝村誠「[史料紹介]安重根の獄中口述記録『聴取書』」『コリア研究』(立命館大学コリア研究センター)11号, 2021年3月, p.45.
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