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キューバサンドの歴史 - キューバンサンドイッチを求めて(2)

東京、横浜、大阪、日本でもキューバンサンドが食べられることまでは調べがついた。さすがに、おいそれとふらっと食べに行けるほど近所ではないので、次の出張まではお預けにする。ただ、それまで我慢できないので、作ってみようかと。まずは、キューバンサンドイッチってどんなもの?食べたことないからネットで下調べをしてみた。

ハムとモホソースでマリネされたローストポーク、スイスチーズに、そしてマスタード。とくに、キューバだからという理由は見当たらない一見平凡なこのサンドイッチも、キューバでは見かけられない。そう、キューバとは名ばかりで、実は、アメリカはフロリダを起源とするサンドイッチだった。

1868年〜1898年、スペインからの独立戦争時に、多くのキューバ人が戦火を逃れるようにしてフロリダに渡る。同時期、キーウェストは数多くのシガー工場が存在し、そこでの雇用が彼らの移住を促進させた。多くの労働者は、そこでハム&チーズサンドイッチと出会い、さらにはキューバテイストを加えて、自分たちの胃袋を満たしていた。ハム、チーズに加えて、ローストポーク、さらにはピクルスにトマトやレタス、そしてマヨネーズなど、ごっちゃなサンドイッチへと発展していった。かれらはこれを「Mixto」と呼んでいた。

1886年、Vicente Martinez Ybor が所有するタバコ工場は大規模な火事に見舞われ、タンパと言う町に拠点を移すことにした。後に、彼の名にちなんで呼ばれるようになったYbor City (イーボア・シティー) は当時、世界最大のタバコ生産エリアへと発展していった。

もちろん、数多くのキューバ人も工場の移転と共に住処を移すことになる。彼らのサンドイッチは、タンパでも食されることになるが、一緒に働くイタリア人の影響を受けて、ここでサラミが合流し、現在のタンパスタイルへと発展することになる。

1896年、時を同じくして、Francisco Ferlita は、彼が経営する「Ybor City Joven Bakery」と言うベーカリーショップで、新たなパンを開発する。90cmほどの長さの、外はカリカリとクリスピー、中はふわっとソフトなバゲットのようなパンで、ヤシの葉っぱでクープを作り、焼き上がったバゲットにはしっかりとあたかも谷が出来たようにくぼんでいていた。キューバンブレッドと名付けられたこのパンが「Mixto」との出会いにより、今日のタンパスタイル・キューバンサンドイッチが誕生した。

1930年代には、マイアミでも、このタンパスタイルのキューバンサンドイッチを食べることが出来たことは、1937年の「Miami News」の広告から見て取れるそうな。ところが、1950年代に入るとマイアミでは、イタリア人の移住者も少ないことから、また、新たなキューバ人の移民により、キューバンサンドイッチに改変が行われることに。サラミ抜きのキューバンサンドイッチがここで誕生することになる。

1974年には、Raul Galindo が作る「Latin American Cafeteria」にて、始めてサラミ抜きのキューバンサンドイッチを提供したと言われている。特に強烈な反対も賛成もなく、このサラミ抜きのサンドイッチが、新たなマイアミスタイルのキューバンサンドイッチへと進化し、1980年以降、爆発するキューバ人の人口増加により、マイアミのこのキューバンサンドイッチが自身のサンドイッチだと誇示し始める。

キーウェストやタンパで発祥したにもかかわらず、このサラミ無しのキューバンサンドイッチは、マイアミでの人気を総取りし、キューバンサンドイッチは、もはや、マイアミや、ハバナのものだと認識されるまでに至った。

本記事は、下記を要約しました。端折ったり意訳したり追記しておりますので、原文に興味ある方は原文をご覧ください。






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