常識と思い込みと共通認識(3+5=8)

こんにちは。
僕はアニメが好きですが、その中でも「好きなジャンル」があります。
それは、タイムスリップや転生もののようなSF系です(幼女戦記とか面白いですよね)。

「常識」では決して起こり得ない事態、次々に巻き起こる奇跡の連続が、物語を魅力的に押し進めていきます。

でもこれは、僕らが心の底で「こんなことは現実には絶対に起こらない」と思っているから面白いと思えるし楽しめるんですよね。

僕は「タイムマシンに乗ったり、魔法や超能力が使える世界」にはワクワクするし、「宇宙から侵略者が攻めてきたり、隕石が地球に衝突しそうになる世界」にはハラハラします。
それらは全て、「常識」ではあり得ない(と僕が思っている)から、このような非日常を安心して娯楽として享受しています。

だから僕は世の中の作家さんや脚本家さん、小説家さんを心から尊敬しています。
「よくこんな物語やストーリーを思いつくよな……どういう思考回路なんだろう……」と、1つの映画や小説を見終わったときそう思います。
でもこんな風に一定時間考えていると
そもそも「常識」って何だ……?という疑問が沸いてきます。

小学生みたいですね。

でもいいです。
先週の記事同様、「世界は贈与でできている」から言葉を引きます。

僕らは、真理や絶対確実な知識というものを、徹底的に検証されたもの、証明されたものだという考えを持っています。ですが、ウィトゲンシュタインが切り開いた真理観は、「疑いの不在」という意味の確実性でした。
「疑うことができない」という疑いの根源的な不在によって、それが正しいとされるのです。

この文章を本書の文脈に照らしてかみ砕くと、
「疑うことができないから、それを常識ってことにしておいてくれよ」ということです。
つまり「疑うことができないもの=常識」ということになります。

疑うことができないものって何??どういう意味??って感じですよね。
本書では、こんな例え話が書かれています。

「3+5=8」の確実性

ある生徒がどうしても「3+5=8」に納得できず、これを疑ったとします。それも徹底的に。
3+5は7でなければならない!と言い張ったとします。
僕らは当然、その生徒を説得にかけます。

——ほら、天秤を見てごらん。3グラムと5グラムを置いた皿と、7グラムを置いた皿がつり合ってないでしょう。

「この天秤が間違っているかも知れないよ。先生が僕をだまそうとして細工をしているかも。そもそも『同じ重さのときに天秤がつり合う』ことの正しさはどうやって証明されたんですか?」

——リンゴ3個とリンゴ5個を冷蔵庫に入れたら、8個になっているでしょう?

「リンゴが自然発生することがないとどうして先生は言えるのですか?科学的に説明してください」

——演算を行っているコンピュータはちゃんと作動して、計算をしているじゃないか?

「アメリカの陰謀です」

——3万円と5万円を入金したら、銀行口座の残高はほら、ちゃんと7万円じゃなくて8万円になっているよ。

「銀行なんて、最初から信用できません」

つまり、その生徒は、間違っているのは「3+5=7」ではなくてそれ以外の周囲の命題である、と言い張ることになります。

真偽を疑うべきは、
「重さが等しいとき天秤はつり合う」
「物体が突然発生することも消滅することもない」
「コンピュータは正しい計算をする」
「銀行の残高は変化しない」
という説明の方だ、ということですね。

でも、これを否定することは相当難しいです。
どう考えても現実の生活と齟齬・矛盾が発生して、不合理性がたくさん出てきてしまいます。
常識である「3+5=8」を疑ったがために、それ以外のさまざまな事実を否定しなければならなくなるのです。

天秤の例を改めて考えてみましょう。
3グラムと書かれた分銅と5グラムと書かれた分銅を左の皿に置いて、8グラムと書かれた分銅を右の皿に載せたらちゃんとつり合った。
ではこの時、この実験の中で一体何が確かめられ、何がテストされたのでしょうか。
果たして、「3+5=8」という数学の命題が証明されたのでしょうか。

違います。

「天秤が正しく機能している」こと、あるいは「分銅に書かれているグラム数が正しい」ことが確かめられたのです。
つまり、「天秤は同じ重さを置いた時につり合う」という天秤自体の定義が確かめられました。

逆に、つり合わないという矛盾が発生した場合は、「3+5=8」が間違っていることが証明されたのではなく、「天秤が壊れているのではないか?」「分銅が摩耗で軽くなっているのではないか?」というように、「3+5=8」以外の面に疑いの目を向けて原因を求めますし、そこに齟齬が見つかります。

要するに「3+5=8」はそれを疑わないことによって、新たな知識を獲得できるという意味において絶対確実な真理=「常識」となるわけです。
「Aを疑おうにも、それを疑うことでそれに関わるB~Zまでの事象全てを疑わなきゃならないので、Aを常識ってことにしておこう」ってことですね。

例えば、

僕は今まで、地球には電波というものがあることを「常識」として知っていましたが、それは偉い人が科学的に証明して、みんながそう信じているからだと思っていました。
でも実際は、「電波があるということにしないと説明がつかないことが多すぎるからそれを普遍の真理=常識としている」に過ぎないんですよね。
電波の存在を否定すると、人工衛星の機能を否定することになり、カーナビ等の通信機器が機能しているのか、あるいはなぜ天気予報が高い精度を持っているのか説明できなくなります。

つまり、これは世界をどう捉えるか……という問いかけです。

世界の形

あなたなら、世界はどちらの形をしていると思いますか?と近内さんは読者に問いかけます。

全編

止まって動かない、宙に浮いたように見える黒いボール。
ボールを支えているであろう台座は2種類見える。

Aは安定つり合い。外から力が加わっても、復元力(重力)によって勝手に元の位置に戻ってきます

Bは不安定つり合い。少し外から力が加わればボールは二度と同じ位置に戻ることはありません。
もしもとの位置に戻したければ、また外から力を加える必要があります

ずっと静止し続けているボールは、それが復元力に取り囲まれて静止しているのか、それとも、ちょっとした揺らぎが加えられたら二度ともとの位置に戻ることができないような状態で静止しているのか区別がつきません。

静止し続けるボールは、もし仮にこの台座が透明で見えない場合、次の図のようにボールを動かしてみなければどちらのつり合いか分かりません。

後編

「どちらのボールも、静止している」
それは、昨日と同じような今日がやってくることを表しています。

実際、停電が起きてもすぐ復旧し、電車が運転を見合わせてもそのうち運転は再開されます。上下水道も当たり前に機能し、ボタン一つで温かいお湯が出ます。薬を飲めば病気が治ったり、道路はいつだってきれいに舗装されています。
だからついつい、このボール(=社会)がくぼみに置かれた安定つり合い(図のA)だと思い込んでしまいます。少々の社会的混乱も自然に収まると思ってしまいます。

でも、今回の歴史的感染爆発を巻き起こしたコロナウイルスによって、昨日と同じ明日が来るという「常識」は、ただの「思い込み又は共通認識」だったことが分かりました。

世界的な外出自粛、大規模な休業要請など、少なくともコロナ前とコロナ後の社会は異なっています。

そしてこれが、自然に元に戻るかというと、きっとそうではないですよね。

マスクを着用して、人との社会的距離を保ち、手洗いうがいを欠かさない。
これらの「新たな生活様式」を踏まえ、今までの社会的な営みを変化させ、コロナウイルスという感染症と付き合っていかなければならなくなったわけです。

こうした人類の不断の努力やワクチンの開発といった科学の進歩を経て、少しずつあるべき場所へボールを戻してあげています。

僕は今まで、世界は安定つり合い(図のA)だと思っていました。
だから「電車の遅延」にも「マスクの売り切れ」にも、腹が立つことがありました。
ボール(社会)は放っておいても安定点に戻るのに、それが安定点からずれているということは、無駄な力を加えてわざわざずらそうとする奴がいる……そんな風に思っていました。
この考え方をしていては、いつまで経っても感謝ができないクズ野郎です。

でも、きっと世界には常識の方が少なくて、僕らは不安定つり合い(図のB)に生きています。
もともと不安定な位置にあってもボールが安定している位置に戻っていたのは、僕が感知しない誰かが元に戻してくれていたからなんですよね。

本日の結論です

・「普遍的な真理=常識」は疑うことができない。
・なぜなら常識を基盤に世の中が動いているため、常識の方を疑うと世の中が動いていることの説明ができない
・「昨日と同じ明日がくる」というのは常識ではない
・それが常識ではないことを理解した瞬間に、感謝が生まれる

今そこだけに通用しているものは、「常識」じゃなくて「思い込み」か、「共通認識」です。

僕は一度、職場の人間関係でドロップアウトしそうになったので、
この考え方を早く習得できていたらなぁ……と思いました。

完全に余談ですが、
今回の記事のために「台座とボールの図」を書いている時に妻が、
「おっぱい?!なぜおっぱいを作っているの?!」と騒ぎだしたので、
「ごめんごめん……分かったからイオンで大きな声を出すのはやめような」と言いました。

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