本当の自分なんて元々無いんじゃないの?というお話【分人主義】

こんにちは。
今日は、ある本を読んで長年疑問に思っていたことが解消されたので、そのことについて書きます。

皆さんには、日常の色々な場面で「キャラを演じる」場面、ありませんか?
例えば居心地が悪さを感じた時に、「場の空気」に合わせたキャラを演じることでその場を切り抜ける、みたいな。

そして切り抜けた後、こう思いませんか?
「あー、あれは本当の自分じゃなかった」と。

「嫌々ながら愛想笑いで切り抜けたのは、その場限りの表面的な自分だった。キャラというのは演じられた自分で、仮面というのは使い捨てのかりそめの顔。
私の中には、それを演じている「本当の自分」があって、かぶっている仮面の下には「素顔」がある。
だって「本当の自分」は愛想笑いなんてせずにもっと伸び伸びしているもん。信頼のおける友人や家族に見せる姿が「本当の自分」で、それ以外は「仮面をつけた偽物の自分」なんだ」という具合に。

これをイメージしづらければ、「素の自分」という言葉使ったことがあれば十分です。
「素を出せる友人」、「この人達と一緒ならありのままの自分でいれる」という感覚を持ったことはありますか?僕はあります。

でもそこで、そもそもの疑問が生まれてきます。
「じゃあ、素って何??何をもって本当の自分って言いきれるの?」

この問いに対する回答は、小説家である平野啓一郎さんの著書「私とは何か」の分人主義という考え方によって説明できます。

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結論を先に述べます。

「本当の自分」なんて無くて、人格はコミュニティごとに形成されるから、身体的な個人から精神的な分人へ細かく分かれていくものなんだよ

ということになります。

少しわかりづらいので書き下してみます。

本当の自分がいない理由

まず、平野さんは「本当の自分」はいないと主張しています。
もし本当の自分がいるのであれば、コミュニティや場面ごとに「本当の自分」という主体が「意識的に」仮面をつけ替える作業を行う必要があります。

ですが、例えば皆さんが社会人だとして、道でばったり中学時代の友人に会った時、急に当時の話し口調や態度に変わり、昔話に花を咲かせたりしませんか?
小学校の同窓会と大学の同窓会では、それぞれのコミュニティでのテンションやノリに自然と切り替わりませんか?

要するに、これらの人格が切り替わる現象は「意識的に」ではなく「自然に」発生するのです。
そのため逆説的に、本当の自分はいない(本当の自分がいれば「意識的に」仮面を付け替えているはず)ということが言えます。

人格はコミュニティごとに形成される

私たちは生きていく上で、継続性をもって特定の人と関わっていかなければなりません。そのためには、誰かと会う度にまったく新しい自分であることはできません。出社するたびに自己紹介から始めて一から関係を結びなおすなんていう行為は、非効率的・非合理的過ぎて人間の脳には不可能だからです。

私たちは朝に日が昇って、夕方に日が沈む、という反復的なサイクルを生きながら身の回りの他者とも、反復的なコミュニケーションを重ねています。
人格は、その反復を通じて形成される一種のパターンに過ぎません。

人間には、「この人とは、こういう態度で、こういう喋り方をすると、コミュニケーションが成功する」という学習機能があって、会う回数が増えるほどこのパターンの精度は上がっていきます。

個人をさらに細かい単位に分けるのであれば「分人」という言葉を使うことができ、上記のようなコミュニケーションパターンごとの「分人」が人間には備わっている、というのが平野さんの主張です。
この分人は、パターンごとに増えていきますが、例えば下図のように分子を1(100%)として、自分を構成する比率を表すことができます。

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コミュニケーションの頻度や自分の居心地のよさによって、自分を構成するそれぞれの分人の大きさは異なります。
逆に言えば、分人に優先順位をつけることが可能な訳です。
「〇〇さんといる自分」や、「〇〇のコミュニティにいる自分」が好きであれば、自然とそのコミュニティにいる時間が長くなり、自分を占める構成比率が大きくなります。
でもこの分人は、分人として独立している訳ではありません。
「その時に構成比率が一番大きい分人」に、他の分人が影響を受けることがあります。
だから、「アイツ、ある時から人が変わったよな…」と思うことがあるのもこのためです。
決して、「普遍的な人格が元々あって、それが変わった」訳ではないのです。

個人から分人へ

世界は、「個人(individual)」をこれ以上分けられない最小の単位として定義してきました。
in(不)dividual(分ける)=individual(もうこれ以上分けられない)といった具合にです。
「個人」は他者と区別するのに便利な表現です。

古くは神への信仰、近代でいうと戦争にその経緯を見ることができます。
元々はキリスト教の神は一者でした。一なる全知全能の神と向き合うためには、嘘偽りのない唯一の自分(個人)として対峙する必要がありました
また、第二次大戦のような総力戦で、いざ国民を動員しようとした時、一人の人間の内部で、国家に忠誠を尽くす分人よりも、家族との分人や恋人にうつつを抜かしている分人の方が大きいというのでは困るでしょう。
このような中で、国が強制的に分人を抑え込み、「個人こそが国家を作る最小の単位である」と定義していきました。

ですが、見てきたように個人は分人化することができます。
インターネットの普及を経て、世界中とつながることができ、更に分人化しやすい環境が整っています。
でもそうして皆さんの中にたくさんの人格が作られたとしても、それは仮面ではありません。紛れもないその人に対する自分自身です。
だから「本当の自分」なんてものを探すことを頑張る必要もないのです。

よって、本日の結論は次の通りです。

・コミュニケーションをとる相手によって人格は「無意識に」変わる
・「本当の自分」がいるのだとすればソイツが「意識的に」人格(仮面)を変えているはず
・よって「本当の自分」はいない
コミュニティごとに人格(分人)が作られる
・接触頻度や居心地の良さによって、自分を構成する分人の比率が変わる
「その時に構成比率が一番大きい分人」が他の分人に影響を及ぼすことがある
・だからその人の人格が変わった感じられたとしても、「元々の普遍的な人格が変わった」訳ではない

本当の自分を探すのって辛いですよね。
存在しないものを探すのだから、きっと途方もない。


高校デビューや大学デビューを揶揄するのは、自分が知っている「本当のアイツ」はあんなじゃなかったと周囲が勝手に思うからです。

もし仮に「俺は俺」「私は私」という「本当の自分はこれだし」のような態度でどんなコミュニティも一律の人格で乗り切る人がいるとするならば、周りが非常に寛大で、忍耐強く彼らを受け入れているだけです。

学校でいじめられている人は、その人が本質的にいじめられる人間という訳ではありません。


だから「そのコミュニティごとの人格がある」ということを認めると、楽な気持になります。
それは自分自身にも相手にも、です。

人格はあくまでコミュニケーションのパターンです。
辛いと思うパターンもあれば、心地よいと思うパターンもあります。
リスクヘッジで色々なパターンを作ることは、決して卑しいことではありません。

これは、八方美人や多重人格の勧めでもなくて、あくまで明日を楽に生きるための考え方の一つだと思っています。
「本当の自分はこんなんじゃないはず」、「本当のあの人はこんなことしない」と考えること自体が不毛で、本質的ではない気がします。

人間関係で悩んでいる方へ
僕の稚拙な言葉がどこまで届くかはタカが知れていますが、
本当の自分を無理やり作らず、どうかポジティブに、前向きに。

それではよい週末をお過ごしください。

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