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世界の2割には自動的に嫌われるけど結局どうでもいい【アドラーの課題の分離】

今日は「対人関係のトラブルは大体、他人の課題に土足でズカズカ踏み込んでいるから(逆もしかり)」というテーマで書きます。

僕が高校生の頃、図書館で定期試験の勉強をしていた時のことでした。
「私、〇〇(僕のフルネーム)のこと嫌いなんだよね」という会話が近くから聞こえてきました。
どうやら図書館に勉強をしにきた女子二人(高校生)がそんな会話をしていたのですが、明らかに僕の学校の制服ではなく、僕はその二人に全く身に覚えがありません。
あちらは僕の姿に気付いておらず、二人はそのまま悪口を続けていました。
僕の名前は比較的珍しいため、苗字と合わせると中々被るものではありません。

そのため確実に自分のことを言われているという悪意を感じ、なぜ見ず知らずの人にそんなことを言われるのだろうという不思議な気持ちでその日はよく眠れませんでした。

翌朝、寝て起きてもモヤモヤがおさまらない僕は父にそのことを相談しました。

「世界の2割の人は君のことを嫌いになる。
世界の6割の人は君のことなんかどうでもいい。
世界の2割の人は君のことを好きになる。
と松下幸之助が言ってた」

父はパナソニックの創業者の話を微笑みながら教えてくれました。

「2割かどうかは分からないけど、きっと君がこの先どんなに人の役に立つ行いをしたとしても、君のことを嫌いな人はいるだろう。でも逆に君がどんなに悲惨な状態にあっても、君の味方になってくれる人は絶対いる。そういうものだから気にするな」

この言葉を聞いて気持ちがスッと楽になったのを覚えています。

誰からも嫌われずに生きていくのがそんなに難しいなら諦めよう。

だって自分がベストを尽くしても嫌われるんだったら仕方なくないか……?

これは、その後の僕の考え方に大きく影響を与えました。

プレゼンやその他の勝負ごとにおいて、
自分のベストを尽くしたら、あとはそれを人がどう評価するかだけ。
だから自分にできるのは結局ひたむきな努力しかない。

心理学者のアルフレッド・アドラーは、このような考え方を「課題の分離」として説明しています。

嫌われる勇気(岸見一郎、古賀史健)より参考

ある課題が目の前に出てきたとき、我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
そして、他者の課題には踏み込まないことが重要です。
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと——あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること——によって引き起こされます。
課題の分離ができるだけで対人関係は激変するでしょう。
そして、それが一体誰の課題なのかを見分ける方法はシンプルで、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えることです。

本書の中で、課題の分離の分かりやすい例として「子どもの勉強」が挙げられています。

子どもが勉強するのは"子どもの課題"

「子どもが勉強するのかしないのか」というのは、子どもの課題であって親の課題ではありません。
なぜなら、もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末——授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど——を最終的に引き受けなければならないのは、親ではなく間違いなく子どもであるからです。

しかしこれには、2種類の批判が出てきます。

① 「勉強すること」は子どもの課題かもしれないが、「子どもに勉強させること」は親の課題ではないか。
② そもそも子どもが勉強しなくても「それは自己責任だから放置しておけ」というのはとんでもない発想だ。

①について

仮に「子どもに勉強をさせる」という課題を親が設定したとします。
もしこの選択がうまくいかなかった場合、親自身が引き受ける結末は例えば「子どもに勉強をさせることができなかった親」という客観的事実です。
これは、(課題設定をしてしまったがために)世間体や見栄が傷ついている状態となっています。

「勉強をさせるという課題を設定した親の姿」は、子どもの目には、「"世間体や見栄が傷ついてしまうという結末"を回避しようとしているヤツら」に映ってしまい、「”あなた”のためとか言っておきながら結局”わたし”のためだろ!!」と反抗することになるのです。

なので、「子どもに〇〇させる」という課題を親が設定することは好ましくない訳ですね。

②について

課題の分離は、勉強をしない子どもを放置するという放置主義を容認するものではありません。
子どもが何をしているか知らない、知ろうともしないという態度である放置主義とは違います。
親にできるのは、子どもが何をしているのかを知った上で、見守ること。
勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておくこと。
と、本書では反駁しています。

というわけで本日の結論です。

・どうやっても人から嫌われないことはできない
・自分の課題と他人の課題は、分けて考えた方が楽になれる
・人間関係のもつれは人の課題に土足に踏み込んだ時か、自分の課題に土足で踏み込まれた時に発生する
・自分か他人どちらの課題かを判別するには、その選択によってもたらされる結末を、最終的に誰が引き受けるのかを考えること
・相手を変えることはできないから、相手が変わるような環境を整えて見守る


思い返せば、僕は両親に「宿題やれ!勉強しろ!」と怒られた記憶がありません。
一度もです。

その代わり、選択肢を用意してくれていました。
塾や予備校に行きたいと申し出たときは快く送り出してくれ、環境を整えてくれていました。

自分の課題と他人の課題を見極め互いの領域を侵さないというのは、一見役所的でセクショナリズムな冷たい印象を持ちます。
ですがその実合理的で、しかもきっと楽な気持ちになれるはずです。

それでは、よい週末をお過ごしください。


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