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難しく考えるから難しんだよ

140文字以上の文章は、フリックではなくキーボードではないと打てないというめんどくさすぎる足かせをはめているのが悪いんです。はい。

でも久々に、これは文字として残しておきたいなぁ、他人の目の触れる場所に置いておきたいなぁという承認欲求がわいてきました。書きます。

感情の話です、一般論としての。

いや、ね。だから、いっつもそうなんですけど、私はいろいろと難しく考えすぎるんです。それは、私のいいところだななんて思いつつ、考えすぎてしまうことに苦しむのも人生じゃん?と思ったりするのですが。
人間の、視るとか聴くとか話すとか、単純で基本的だと思われている事象の背景にある複雑で難しい仕組みに対して感動しているようなたちなので、難しく考えることはなかなかやめられないわけです。これはこれで、とっても非常に自分らしいななんて思っています。
こういう話は、簡単なことを難しく、みたいな話は長くなるのでまた。
、、、とか言いつつこれに回帰するのであれなんですが。

感情とかも一緒で。
感情って内観だから、その人のなかにしかないものだから、なんならその人自身がメタ的に認知した感情も、「ほんとう」にその人が持ってるものじゃないかも知れなくて、つまり自分の感情に嘘ついてるのかもしれなくて、でもその嘘ついてるっていう感情はその人の「ほんとう」じゃないんですか?……みたいなことを考えていたらキリがなく。

結局、どこまでいっても誰かほかの人の感情なんてわからないし、なんなら自分の「ほんとう」の感情もわからないんじゃないかと。

本当にうれしいと思っていても、「ほんとう」は悲しいかもしれなくて、
大丈夫だと思っていても、「ほんとう」は大丈夫じゃないかもしれなくて、

でも、じゃあ、ほんとうは悲しいと思っているときのうれしい、
というときの「うれしい」は、本当にほんとうにその人にとっての嘘の感情なんだろうか、

「ほんとうは悲しいと思っているけど、うれしいと思っている」

という感情は本当なんじゃないのかなって。

訳わからん。自分の表現能力の限界ですね。
きっと誰かが、もっとうまいこと表現してくれているはずですが。

感情なんて理論的には無限のはずなのに、言語で無理やり押し込めようとするからですよね。先人の大発明である言語をコケにするほどえらくないのでほどほどにします。

で、まあ本題はここからで。

学問として研究するためには、何らかの基準をつくって、論文とか書籍とかなにかしら言葉にして発表して、知識として積み上げていかないといけない、んだけど。

専門家でも何でもないので、いつかはその端くれになりたいし、小指の第一関節くらいはひっかかっていてほしんですが、
ただただ、生きていくためには、とりあえずは一旦いらなくて、
もしかしたら邪魔になるかもしれなくて

言語化なんてできなくても、定量的にデータを取ることはできなくても、
「感情」があるなら、そこに間違いなくあるのであれば、それでいいじゃない。
何かにたいして、なにかをおもって、そこにはたしかに「感情」はあって、それを確かに自分が抱いているのであれば、へたに言語化したり、表現しようとしたりせずに、離さずに抱いていてあげるのが一番いいですね。

こんな簡単なことも1,000文字も書いて整理しないと実感できないなんて、なかなか、その、愚かですね。

でも、言語化しないと、どこかに置いておかないと、わすれちゃうから、それが怖いから、ね。

さいごに!布教!この歌すき!

専門的にのめりこめば のめりこむほど
一般的な普遍性に気づけなくなってゆく

日食なつこ 『開拓者』


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