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古賀遼東半介という男との関わりを詳らかに書く記事 前編


古賀遼東半介

僕が小学校時代に出会った超バランス型変態滋賀県民である。

その存在を認識したのは小3の時だったと記憶している。
僕の学年には上薮と大山という2人のイケてるサッカー少年がいた。今もそうだが、小学生当時から頭1つ抜けてイケていた。当時同じ小学校内で学区が1〜9に分けられていたなかで、その2人は「9ブロック」という学校から1番遠いブロックに住んでいた。その9ブロックに位置する公園に遊びに行ったときに、上薮に「こいつ、9ブロックのモテ男」と紹介されたのが、古賀遼東半介だった。僕の中で「9ブロック=イケてる」という公式が出来上がっていたので、「"9ブロックのモテ男"、、、こはいかに。」と、習ってもいない古語が心を巡ったのを記憶している。その後、「モテ」の愛称を得た隣のクラスの古賀遼東半介が遠足のバスで女子の膝で寝ていたという話題でワーキャーと騒がれていたりなど、モテ感は耳には入ってきてはいたが、結局彼とは同じクラスになることもなく、ほとんど接触することがないままに、僕らが小6になるタイミングで新しく出来た渋川小学校へと彼は移り、僕は草津第二小学校に残留、それぞれの小学校を卒業した。

学区の関係で、渋川、草津第二、草津、3つの小学校の生徒が草津中学校に進学するため、中学に上がるタイミングで、彼と再び合流することとなる。当時、少年野球をしていた僕は何の躊躇いもなく野球部への入部を決めていた。僕らの学年には小学校のクラブチームでラグビーをしていた武藤という男がおり、彼が「草津中にラグビー部を作ろう」と、学年の皆の署名をせっせと集めていた。その武藤の仲間内に古賀遼東半介がいた。彼も小学ラグビーの一員だった。後に僕自身がラグビーをするなんて露も思わず「ラグビーかぁ。出来るとええなぁ。頑張れ。」くらいの中温の目で見ていたが、結局なんやあり草津中ラグビー部の設立は叶わず、武藤・古賀遼東半介をはじめとする元小学生ラガーマンの彼らは初心者として同じ野球部に入部した。

野球部の同学年メンバーが20名と多めだったこともあり、ざっくりではあるがやはり仲良しグループみたいなものが自然発生した。僕と古賀遼東半介は異グループに属し、中学の段階では部活外で敢えて遊んだりするほどの関係には無かった。
古賀遼東半介は3月生まれということもあってか成長期が中3卒部までに訪れず、学年で1番小柄な選手であった。(※古賀だけに。)しかし彼は器用な男で、初心者とは思えない軽快な動きでセカンドという平均以上の守備力を求められるポジションをそつなくこなしていた。河原田という経験者かつ成長期も経ている絶対的上手セカンドがいたため、古賀遼東半介は補欠だったが、声でも盛り上げるタイプの、チームになくてはならない存在だった。

ここからが世界初公開となる、この場を借りた僕の懺悔になる。2006年4月、我々が中3になって初めての公式大会でのこと。大会前の一大イベントに「背番号渡し」というものがある。当時、部の顧問が新任で、その短期間の判断材料では背番号を決めるのが非常に難儀であるという理由で、僕を含む当時の主将&副将に、大会に臨む背番号を決めて欲しいという難題が課せられた。主将の川口、副将の僕、木村の3名でこの難題を解決することになった。背番号1〜9までは、エースナンバー「1」決めに難しさはあったものの、当時のレギュラーがある程度固定化されていたこともあり、基本的に全会一致で特段問題なく決まった。次は10〜20。当時の僕らのチームは10番が控えの投手、それ以降の番号はその実力ないし部への貢献度順に並んでいくのが暗黙の決まりであった。
ここで問題が発生する。小学生の折、僕は「同級生の名前を呼ぶことが出来ない」という奇天烈難病を患っており、中学生になってからも中学以降知り合った同級生の名前は呼べても、小学校からの同級生の名前を呼ぶことが出来ないという珍状況にあった。僕はこの時、古賀遼東半介を11番か遅くとも12番にはノミネートしたいという思いを抱いていた。極めて少数派の初心者ながらその直近で明らかに実力を伸ばしており部活動での存在感が日増しに大きくなっていたからだ。がしかし小学校からの付き合いである古賀遼東半介の名前を僕は呼ぶことができない。僕が名前を呼べないメンバーは川口や木村の提案に乗る形でしかノミネートすることが出来ない。なんなんじゃこの病気は。そんな状況の中、2人から古賀遼東半介の名前が何故かなかなか出て来ない。なんでなん、と思いながら自分から切り出せず、非常にむず痒い時間を過ごした末、古賀遼東半介はなんと17番になった。結局、決まった番号を動かす事もできずその数日後に顧問から背番号が配られた。名前を呼ばれたときの、本人自身にしても思っていたよりも遅めの番号だったと思われる古賀遼東半介のほろ苦笑いの表情から成る「はい!」の返事の瞬間をいまだに覚えている。背番号が配られた後に主将だった川口から、「古賀もっと若い番号で良かったなぁ。」という発言があり、「いやホンマそれやで」と僕は返した。「いやホンマそれやで。」とちゃうねん。うんこか。
15年越しにはなりますが、これを読んでいるであろう古賀遼東半介に言いたい。「あの17番は11番だと思ってください。すみませんでした。」

その後、古賀遼東半介の名前は、競技を変えてこれまた同じ部活動チームに所属することとなる高校から何故か呼べるようになった。

古賀遼東半介と懇意になるのはここからであるが、存外のボリュームに力尽きたので2編に分けるとする。

後編(高校、浪人、大学、社会人編)に続く。


※この物語は「こはいかに」の部分以外完全ノンフィクションです。




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