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石川駿追っかけ記 〜永遠のヒーロー〜


永遠のヒーロー、それは即ち、人々の心に永遠に残り続けるヒーロー達のことである。
出典:ピクシブ百科事典

小3の春、僕は草二リトルメッツという少年野球チームに入った。大阪は吹田から滋賀は草津に引越して来て間もなかった僕の小学校生活はそこから一気に動き始めた。
僕が小4になったある日、草二リトルメッツは市の野球大会で、日の出ファイターズというチームと1回戦で当たることになった。僕が通った草津第二小学校には少年野球チームが2つあり、それが僕らリトル、そして日の出の2チームだった。当時の日の出は戦力が充実していて県大会で優勝するレベルの強豪だった。小6のキャプテン、眼鏡をかけた副キャプテンがめっちゃデカくて、打撃練習で見たことないくらい遠くに球を飛ばしてるのを見て、「なんじゃこりゃ」と戦慄したのを覚えている。そして当時の日の出には小5に目玉的存在がいた。石川駿、田中竜也の2名だった。この2人は小学校の運動会とかでもめちゃくちゃ活躍していて、有名人だった。その一個下の学年では僕がめちゃくちゃ活躍していたので「あ、同志だ。」と思っていた。すみません調子乗りました殺して下さい。小5当時から彼らは上位打線を打っていて、中でも石川駿(以下駿くんとする)は5年生の時からエースピッチャーだった。試合は案の定ボロ負け。超強力打線にボコボコに打たれかつ、小5なのにめっちゃ速い駿くんの球に手も足も出ず完封負け。背番号20をつけベンチにいた僕だったが、絶対に出たくないと思い震えながら試合を見ていた。こんなに凄いのかと衝撃を受けた試合だった。場所は僕たちの青春、野村グラウンドだった。

時は経ち僕は小6になった。1個上の駿くんは硬式野球のクラブチームではなく、草津中学校の軟式野球部に入ったらしかった。上手い人はクラブチームに行くイメージがあったので少し意外だった。僕の中で草津中野球部が「あの駿くんのいる部活」となり少し憧れのチームになった。
話を揺らすが、僕らのチーム、草二リトルメッツの1個下には現ティモンディの高岸がいた。高岸のお兄ちゃんが草津中で駿くんと同級生らしく、高岸づたいで駿くんが草津中野球部で一年生からピッチャーとして登板して活躍していると言う情報を聞いていた。すげぇーという感じだった。
クラブチームか草津中野球部のどちらに入ろうか迷っていた僕だったが、駿くんのいる後者に傾き始めていた。

その後僕は草津中学校に入学し、やはり草津中野球部に入部した。草津中野球部は、中3が夏に引退するまで、中1は体作りの期間ということで、ボールに全く触れずに校舎の外周ランニングと、筋トレ、また試合時の3年生の応援だけをして入部後の数ヶ月を過ごす。中1の成長期前の時期に筋トレさすな身長止まるやろがとみんなでグチグチ言いながら生真面目な僕ら1年生(不真面目な大将川口だけ全サボりしていた)はその期間をなんとか乗り越えた。

そして中3が引退した夏、中1ボール解禁のタイミングで早速、中1vs中2の紅白戦が行われた。こりゃあ良いアピールチャンスだと、皆緊張しながらも気合が入っていた。少年野球時代僕はキャプテンをしており、別の少年野球チームではあったものの、駿くんは僕の存在を認知してくれており、「上手い奴」みたいな扱いをしてくれていた。僕が初打席に立った時、ピッチャーの駿くんが優しく僕に笑いかけ「林、打てよ。」と言い、めちゃめちゃ打ちやすい球を投げてくれた。その球を僕はたまたま(※球だけに)完璧に捉え、結果レフトオーバーのランニングホームランになった。完全な好アピールとなった。怖い人だとイメージしていた駿くんの優しさに触れ、一発で駿くんに心を掴まれた瞬間だった。駿くんは見た目はイケメン、オーラはいかついが、めちゃくちゃ優しいのだ。
駿くんはチームのエースで、基本ピッチャーだが、ノックの時はよくサードやショートを守っていた。僕もサードだったため、駿くんと同じポジションでノックを受けることが多く、その時に僕をイジって駿くんが爆笑している時間が正味な話大好きだった。あとで写真が出てくるが駿くんの爆笑顔はとても素敵なのだ。駿くんは上手過ぎて別格扱いされていたので練習中に爆笑したりしていても顧問の平子先生に怒られることはなかったが、平部員の僕は内心ヒヤヒヤしていたのも今となっては良い思い出である。

時は経ち、僕は中2になった。中3になった駿くんは日に日に凄みを増していた。特にバッティングでは、校舎ノーバン直撃の大飛球を打ちまくるようになっていた。バッターボックスから校舎までまぁまぁ距離があったためそんな光景はこれまで見たことがなく、衝撃的だった。中3になり体もでかくなった駿くんが草津中のグラウンドキャパを超えてしまったのだった。吹奏楽部のフルートの子が練習してる3F廊下の窓のすぐ横とかに打球が直撃したりしていた。普通にめっちゃ危なかった。しかし駿くんは持ってる男で、結局1枚もガラスを割ることはなかった。
駿くんは中学の練習を必死こいてやってるという感じではなかった。しかし明らかに日に日にえらいことになっており、一体どこでどんな練習をしているんだろうと思った。結局それは分からないままだった。

そして迎えた駿くんの代の最後の大会。何回戦まで行ったか覚えてないが、最後の試合、終盤、草津中は劣勢にいた。野球部中3で唯一ヤンチャグループにいた1番遊撃手ハヤチューが、「大会直前に校舎の壁を殴って骨折した左拳」をものともしないセーフティバントにて出塁。それを4番の駿くんがスリーベースで返した。その時に初めて見た駿くんの三塁へのヘッドスライディング。さっき触れた通り駿くんは中学野球をどこか達観した状態でプレーしている感じで、めちゃくちゃ凄い一方で、ダイビングとか体を張った熱いプレーをしている姿は見たことがなかった。そんな駿くんの執念のヘッドスライディングを見て僕は泣いた。結局チームは敗れ、それが駿くんと同じチームで過ごす最後の試合となった。キャプテンのやまごんや我らが大将川口、みんな泣いていた。駿くんは泣いてなかった。次のステージを見据えるような精悍な顔つきをしていた。

その後駿くんは県の強豪、北大津高校に推薦入学した。そして迎えた2007年春のセンバツ、北大津高校は近畿枠で出場。高2になりたての駿くんは4番セカンドで出場していた。持ってる男、駿くんは初戦で3安打1打点2得点の活躍を見せた。めちゃくちゃ知ってる人が甲子園で大活躍している姿を見て大興奮した。
その翌年、キャプテンとなった駿くんがまた同じ舞台2008年春のセンバツに出場していた。東北高校、横浜高校を破る快進撃。持ってる男、駿くんはその大会でも打ちまくり、横浜高校戦ではエースの土屋から大会通算600号の記念ホームランを打っていた。大興奮だった。夢をありがとう、と駿くんファン一同が沸いた。
駿くんは高3最後の夏の甲子園滋賀県予選で手に死球を受けて骨折し、結局北大津は県予選で敗退した。駿くんは高校通算49本塁打を記録し、その広角に長打を打てるバッティングセンスを評価され、ネット界隈でもプロ注目選手として取り上げられていた。がプロ志望届は提出せずに、明治大学へと進学した。

明治大学に入ってからもずっと石川駿ファンの僕は駿君の動向を追い続けた。大学時代はずっと怪我がちだったが阪神二軍との練習試合でホームランを打つなどしていた。チャンスでの強さは健在だった。その後社会人野球、JX-ENEOSに入り、都市対抗野球で大暴れし若獅子賞を獲っていた。さすがだった。Jスポーツで駿君が出る試合は全部見た。僕と同じくらいの熱量で高校以降の駿くんを追いかけ続けていた草津中の最高男、福島健太と共に駿くん情報を草津中野球部の同級生に垂れ流しながら、みんなで駿くんを応援した。

そして迎えた2014年プロ野球ドラフト会議にて中日ドラゴンズから4位指名を受け入団。背番号は9。大興奮だった。かの落合GMにその実力を高く評価され、即戦力と期待されていた。
プロに入ってからまず1番初めにみんなで沸いたのは、引退試合の阪神安藤から駿くんがプロ初ホームランを打った試合。ネットで「村田修一の再来」などと恰好の話題となっていたが、ただただ駿くんファンの僕たちは万歳した。あの駿くんの必死な姿が本当にカッコよかった。
当時の記事

2019年駿くん勝負の年、僕は職場同期の結婚式で沖縄県北谷町に行った。ちょうどプロ野球の沖縄キャンプをしている時期で、泊まったホテルのすぐ近くにドラゴンズの一軍キャンプ球場があった。ちょうど駿くんもその一軍に参加しているとの情報を得て、会えたら最高だなと向かった。駿くんと会うのは中学以来だったのでそもそも僕のことを認識してもらえるかが少し不安だったが、駿くんに声が届きそうなところに来たタイミングで「駿くん!」と手を振ると1.5秒ほどこちらを凝視した末僕と言うことに気づいてくれたようで、両手を開いて「は?!なんでおるん?!🤷‍♂️」みたいなジェスチャーを返してくれた。そして隙を見て僕のいるネットのところまで来てくれた。当時ラーメンばかりあげている僕のインスタにラーメン好きの駿くんがたまにコメントをくれたりしており、「名古屋おるんやろ?また飯行こや。」と言ってくれた。「オウイエスだ!!!」の極みだった。


笑顔の駿


僕はこのキャンプを機に、中日ファンとして生きることにした。巨人ファンだった昔の自分からすれば考えられない方向転換だった。

そのシーズン、駿くんはウェスタンリーグで首位打者を獲った。次のシーズンに大きな期待がかかる2019年シーズンの締めくくりだった。

そのシーズンオフ、11月のある日、僕が東京で食べた二郎をインスタにあげたら、駿くんから「家二郎いつ?」とメッセージがあった。その週末が空いていたので、その週末に「僕が作った家二郎を練習終わりの駿くんが食べに来る」という僕にとって夢の企画が実現した。駿くんは大学時代にラーメン二郎府中店の虜になって以来、二郎が大好きだった。名古屋ではラーメン大名古屋店が1番好きらしい。二郎以外では来来亭が大好きらしい。僕は豚骨、二郎風の麺を仕入れ本気で家二郎を作った。
駿くんは「冗談抜きで美味い」と言って一瞬で完食してくれた。大感激した。

一口目の駿

駿二郎

駿くんはご飯を食べたあと、僕の家で2時間くらいみっちりプロの世界の話をしてくれた。
小中高大社会人プロ、どれが1番しんどいかという僕の問いに対して、「ダントツでプロ」と言っていた。駿くん自身も、プロに入るまではそれまでの野球人生で相当きつい経験をして来たから、それ以上にキツいことはないだろうと思っていたらしい。が、練習のキツさだけ取ってもプロが1番らしい。メンタル的なキツさもそれはそれはダントツで一位らしい。プロ野球選手にかかるプレッシャーはやはり半端ではないらしい。
僕が「未だにプロ野球選手になりたい気持ちがある」と言うと一言、「オススメせん」と言っていた。「オススメせん」史上1番カッコ良かった。
それでも生まれ変わっても野球はするんやろなぁとは言っていた。野球の虫である。
あと人生において「コイツには勝てん」と一番強く思ったのは小学生時代の田中竜也くんらしい。草津民にしか分からない話になるが、彼のセンスはやはり凄すぎたらしい。竜也くんはヤンチャ道に走り中学の途中で野球を辞めていた。駿くんは、「厳しい選択をし続けることが出来るかどうかだけ」と言っていた。竜也君は野球という分野で厳しい選択をせず、駿くんは厳しい選択をし続けた、結果駿くんはプロになった。それだけ。と自認していた。かっこえ。
他にも色んな話をしてくれた。広島の長野選手と松坂大輔投手の「人柄の良さ」は半端じゃないらしい。
中学ぶりに会った僕にこんなにも向き合って色んな本音トークをしてくれるあなたの人柄こそが1番良いですと思った。

そして迎えた2020年シーズン、駿くんはこれまた開幕一軍スタート。駿くんの出る試合全てを見逃さないようDAZNに有料登録した。6月に広島の森下から打った走者一掃のタイムリースリーベースが忘れられない。中学最後のスリーベースを思い出した。最高男、福島健太と共に実況LINEを垂れながら万歳した。
しかしその後怪我でシーズン中盤で離脱してしまう。そのまま出場機会はなく、そのシーズン終了後にチームから戦力外通告を受け、引退を宣言。6年間のプロ野球生活を終えた。
愛知県の僕の職場には僕以外にも駿くんのファンがいて、「まだまだやれそうなのに」と肩を落としていた。残念だったが、去年会ったときに聞いた話や報道内容を見ても、勝手な推察にはなるが本人自身が野球に対してやり切ったと思ったのだと思う。
引退してしばらく経った頃こんな記事が出ていた。駿くんの真摯な人柄を表す記事だった。本当にカッコいい。プロ野球選手だからとかではなく「石川駿」という人間そのものに僕は、僕たちは惚れていることを再認識した。
駿くんは野球のプレーだけじゃない「カッコ良さ」がある。目の奥のカッコ良さ。ひたむきなその茶色い目には人の心を揺さぶる強い芯がある。駿くんは今年から富山の社会人チームでコーチ兼選手として活動しているとのニュースを見た。今後どんな人生を歩まれるかは分からないが、僕の、僕たちの心の中で永遠のヒーローとして石川駿は君臨し続けるだろう。

一方で、中日ドラゴンズに対しては、駿くんがいなくなってからぽっかり穴が空いたような感じで、思い入れがなくなった。僕はただの石川駿ファンであり、中日ファンにはなり切れていなかったのだった。今年から宮城くんや吉田正尚のいるオリックスを応援してしまっています。アーメン。

推しのいる生活って楽しいですね。駿くん以上の推しは今後現れないでしょうが、現れたらそれは素晴らしいことです。僕の、僕たちの野球応援生活を長い期間彩ってくれた駿くんに感謝しつつ、今後とも大好きな野球選手を応援し続けます。そんな結論です。駿くん夢をありがとうございました。あなたは僕たちの永遠のヒーローです。


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