見出し画像

金本又左衛門幹矢という男との関わりを詳らかに書く記事


金本又左衛門幹矢

僕が大学生時代に出会ったズボン七部丈京風ギター野郎である。

彼と出会ったときのことは今でもよく覚えている。正直言って第一印象はウンチだった。箕面キャンパス登校初日、僕がDarwin・D・Wu(以下Dとする)と出会い衝撃を受けていたその数時間後のこと。中国語専攻の2回生の先輩方が箕面で1番大きい大講義室で僕ら新入生の歓迎会を開いてくれた。一個上の我らがイケメンスター、ライライさんの進行の元、会は進んでいった。ライライさんのナチュラル過ぎる爽やかな垢抜け感に、これが大学生か、完全にこうなりたい。と思ったあの会。(結局なれなかった) お菓子やジュースが各長机に用意されていて、まず導入レクレーションとして、近くに座っている者同士4〜5人でチームを組み、チーム対抗のクイズ大会が行われた。楽しいやつ。僕は横並びに座っていたD、吉永、そして金本又左衛門幹矢と同じチームになった。その直前に教室でめっちゃ喋ったD以外はその場が僕にとっての初対面だった。クイズ内容は忘れたが、難易度が程よく高く、考えさせられるものばかりだった。そこで主導権を握ろうとしたのがこの又左衛門だった。ネプリーグのトロッコアドベンチャーで究極の2択に迫られるあの瞬間、みたいなタイミングが何度もあり、その度又左衛門が「オレに任せろ。」と食い気味にペンを握り自信満々風に回答を紙に書いた。その時点で「こいつホンマに分かってんのか」と思わせるあからさまな胡散臭さが滲み出ていたが、まぁええか。と全てを任せた。そして答え合わせ。又左衛門がペンを握った問題はたくさんあったが全問不正解だった。なんじゃこいつ感が絶頂に達した。結果僕らのチームは最下位となり、盛り下がった。どういうやつか知らんが、なんか挙動不審やし、前のめり感がだいぶ空回ってるし、こいつと仲良くなることは多分ないだろうなと直感した。

先に結論から言ってしまうと、彼とはめちゃくちゃ仲良くなった。中国語専攻で過ごした5年間で共に過ごした時間が一番長いのは彼だろう。ただ、こんなウンチスタートからどのタイミングでウンチが流れ切り、彼と仲良くなったかの「コレ」といったきっかけははっきり覚えていない。日々を過ごしていくうちにy=1.01x-1000(ウンチスタート=-1000)くらいのなだらかな直線式に乗ってその関係性を構築していったイメージ。それだけ時間軸x(エックス)の値が大きかった。

最初のxは確かカラオケだったと思う。大学に入学して間もないタイミングで行われたクラス会でカラオケに行った時に、お互いのカラオケ好きを認識した又左衛門と僕はその翌週くらいにまたカラオケに行った。徳納、小寺、村上(あ)、福本、又左衛門、僕、の今となっては珍しい組み合わせの6人だった。そのカラオケが楽しかったことを皮切りに、事あるごとに彼とカラオケに行った。最終的に、盛り有りで40000回くらい行った。盛り無しで言うと多分65回くらい。北京でも行ったし台湾でも行ったし旅行先の石川県で2日連続でジャンカラに行くなどもした。盛り有りで言うと彼は歌がスティービーワンダーくらい上手い。盛り無しで言うと草彅剛くらい。時間の無駄なので以下一切の盛り無しでお送りします。

xが最初に長時間連続したのは2回生夏、1ヶ月間の北京研修の時だった。北京研修は杉村教授という我が専攻語の大御所担任により「AM:授業 PM:自由時間」という莫大な自由時間が設けられた夢のあるプログラムが組まれていた。自由時間を主体的な課外学習に充てて過ごすことが学生にとって最も有意義な成長に繋がると考えたであろう杉村教授の粋なプログラミングだった。よし来たと、意識高い系の又左衛門と僕はそのPM自由時間の大半を「宿舎の部屋で高本が日本から持参したプレステ2でウイイレをする」という蹴球遊戯的活動に充てた。「あと1試合だけやろ」の合言葉を1日に20回くらい唱え、又左衛門のアーセナルと僕のバルセロナをぶつけ合い気付けば夕方になっている、という少年のような夢中さ加減で切磋琢磨した。完全にウンチvsウンチだった。杉村先生ごめんなさい。
仲良くなったキッカケが分からないと上述したが、挙げるとすればこの期間か。高田馬場本の時もそうだったが北京研修を通してクラスメートとの絆が強くなったことを考えると僕らの活動は教授の期待にあながち反してはいなかったやもしれない。いや杉村先生ごめんなさい。

その後やはりxの値が大きくなっていき、それに伴い仲良さ軸であるyの値も大きくなった。
又左衛門の良いところは「相手に気を遣わせないところ」だと思う。彼自身に裏表がなく、思ったことを言うのでこちらもそのように振る舞える。良い意味で全く気を遣わずに過ごせる点がxの値を大きくした要因だと思う。出会った当初は変なトゲがあった気もするが、知らない間にそれが取れて丸くなっていった気がする。最初調子悪かっただけなんかな。いずれにせよ、彼をポジティブに一言で表すと「相手を自然体で過ごさせる天才」みたいな感じで、ネガティブに表すと「常に鼻毛が数本の束で出てる人。しかも両鼻。」みたいな感じ。後者に関しては社会人になった今は改善されてはいるが、当時は本当に常に両鼻から出ていてかつそれを指摘するとクイっと人差し指の第2関節で鼻毛を鼻穴に押し込んだ上で(またすぐ出てくる)顔を少し赤らめてしばらく機嫌を損ねて大人しくなるという「そうなるなら処理してくれ」という地雷持ちだった。あんまり人のことは言えない僕(よく鼻毛出てることを指摘される)でも言えるくらい出ていた。彼自身が自然体だったことを象徴する鼻毛だった。あと手にあるホクロ毛を抜こうとすると「やめろ死ぬやろ」とキレるので注意して下さい。

彼との思い出にはギターが付き纏う。彼はギターを得意としており、体の一部みたいにギターを首から提げた。豊中、箕面のキャンパス、京都の河川敷、カラオケ、公園、自分の家、高本の家、山縣の家、僕の家、所構わずナチュラルにギターを弾き、それに乗せて僕や高本が歌う。迷惑にならん程度に。楽しかった。彼はギター1本で作曲とかもしていた。謎にこなれていた。作詞:高本、作曲:又左衛門のユニット「金昌」が千中や川西能勢口の駅前とかで路上ライブをするなどもしていた。中国に帰る周先生に向けた歌を金昌が作り、送別会でみんなで歌ったのも良い思い出。ある日の授業終わり、金昌+僕で彩都西の公園で又左衛門のギターに乗せて歌っていると、その長閑な情景をみつけた業者の人に写真を撮られたかと思えばその後日、新築マンションの広告に自分たちが載っていたこともあった。

画像1

3回生の夏から又左衛門は香港、僕は台湾に留学した。僕の留学中に又左衛門が台湾に来たこともあったりなど、この時期も着実にx、yの値が大きくなっていった。この台湾の夜、そして大阪の互いの家に寝泊まりした時もそうだが、彼は深夜の「語らっち」が大好きだった。僕の人生における深夜に喋った時間が長い人間ランキングのダントツ一位が彼になるだろう。話の内容は又左衛門の恋バナやクラスメートの話、将来についてなど色々。語らっちモードに入ると彼は必ずこちらを向いて肘枕をつく。これがサイン。深夜時間は高本との3人セットであることが多かったが、又左衛門の肘枕姿を見て「うわクソ眠いこの時間に語らっちモード入っとる」と高本と2人で何度笑ったか分からない。高本と僕が睡魔の限界を迎えて無言になったのを見て彼も肘を畳んで寝、さっきまで1番喋ってたクセに1番初めに寝入り、すぐでっけぇイビキをかき始め、高本と僕が寝れない、などと言う夜を幾度となく過ごした。

留学から帰った4回生以降は、又左衛門は茨木市の総持寺、高本が豊中市の庄内、僕が池田市の石橋に住処を移した。その後、3人の就活が始まったくらいのタイミングで、又左衛門の提案で3人が住む北摂地方(大阪府北部)のグルメを紹介する、「北摂グルメ旅」を銘打つグルメブログを始めた。「大阪で一番のグルメブログになる」という野望を持った又左衛門と、そこまでの熱量は持てていない高本&僕の間に方向性の違いによる亀裂が入りかけた(又左衛門が1人でなんかキレてた)時期もあったが、「食」が好きという3人共通の嗜好がゆるくまとまった思い出深いブログ。今の僕自身の食に関する趣味の原点になっていると思う。

5回生になり、それぞれ就活を終え、あとはゼミの活動や卒論を残すだけと言う時期になり、共に過ごす時間は更に増えた。台湾研修、縦飲み、卒論、京都散歩、茨木のイオン、石川旅行、城崎旅行、謝恩会。この頃の思い出もまた濃い。
卒業が近づくに連れてそれはやはり寂しい気持ちになった。それを誰よりも強く感じていたのはどうやら又左衛門だった。卒業式の日の謝恩会後、飲み会終わりの一コマ、その次の日にはみんなが全国に散り散りになる夜。酒が飲めなくて唯一シラフの彼が唯一号泣していた。これは僕も負けてない自信があるけど、彼は誰よりも中国語専攻のことが好きだった。

卒業後、彼は京都、僕は愛知に住んだ。互いに行き来したりして普通に高頻度で会った。又左衛門と僕が中心となって毎年、年に2,3回中国語専攻のみんなで行く旅行や飲み会を企画した。旅行企画系は又左衛門に任せておけば必ず良い感じになる。こういう企画は今後も大事にしていきたい。コロナもうええぞ。
今年の4月に彼は結婚式を挙げた。ともちゃんというお茶目で可愛らしい女の子と。出会いのタイミングから話を聞いていたので、こりゃめでてぇなの極みだった。結婚式の余興を頼まれた僕は、彼へのメッセージムービーを作った。同級生、先輩、後輩がいっぱい登場するやつ。動画を編集する中で写真を漁り、その思い出のあまりの多さに笑った。どんだけ一緒にいてんと。ムービーは我ながら力作に仕上がった。そもそも動画を作ったことが初めてだったが、彼の中国語専攻愛が凄いのでそれをそのまま彼にぶつけたくなった。先輩後輩含めてみんなとってもいい感じに協力してくれた。愛した分愛されるという、愛が好循環している素晴らしいパターンが出来上がっているような気がした。メカに弱い僕がそれっぽい動画を作れるなんて彼は思ってないので、サプライズにもなって100%泣くだろうなと思った。結果、彼は思っていた3倍泣いていた。めちゃくちゃ不細工だった。

僕はこの余興ムービー作成を機に、動画編集の楽しさに気づき、個人のYouTubeチャンネルを始めた。何かと彼には新しいことを始めるきっかけをもらっているなと思った。
彼は今沖縄に移り住み、飲食のフィールドで自分のやりたいことをやっている。「やりたいことをして生きる」という彼のモットーは大学の時からずっとブレてないなと感心するし、刺激になる。早く彼のいる沖縄にみんなで行きたい。
各々悩みとか色々あるかもしれないけど、みんなが健康第一で今後も過ごしていけたらいいなぁ。ふとそんなことを思った。(何)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?