生存報告
今、ブログの外で俺は、会社の電話当番をしている。
ジリリリリリ、「はい、修理ですね。かしこまりました」
ジリリリリリ、「はい、担当者におつなぎします」
電話を取ること以外は自由だ。だからブログで駄文を練り上げている。
1.さよなら絵里
今ネットで一番影響ある漫画作家藤本タツキの新作「さよなら絵里」が公開されましたね。
私は自己言及的な作品が好みだから、前回の「ルックバック」よりも気に入ってる。私が漫画を描かない人間だからなのかもしれないが、それだとしてもルックバックは肌に合わない。創作物は押しなべてフィクションなんだから、フィクションらしくあって欲しい。現実的な祈りよりも、フィクションであることの自覚の方が面白いんだ。
さて、さよなら絵里の構成は「さよなら絵里の論点を整理したい」が一番まとまっていたように感じるので、ここから引用する。
①②まで作中で”劇中作”だと明言されているが、③④⑤からは描写のみで明言はされていない。そのため、読者は、最後の爆発は編集されたものなのか、それとも主人公の心内描写なのか、どちらか好きな方をで解釈することができる。
編集だという根拠は『デッドエクスプロージョンマザー』で”編集で爆発させたと分かっている”ので、最後の爆発も”編集されたもの”だと解る。
しかし、それは、「おいおい、盛大に爆発したけど、実際にそんなことが起きるわけないだろ!」というB級映画的ツッコミでもある。
私はこの爆発は果たして編集なのか? と訝しんでいる。「あの爆発は編集じゃなくて実際に起きたのだ」と主張したいからではない。つまり、あれに必要なのは爆発があったかどうかであり、その形態が現実であろうと、編集ソフトの巧みな嘘であろうと、それはどうでもいい。
なぜなら、あの爆発は絵里との思い出との決s別だから。決別に編集だなんだっていうのはヤボじゃない? って言いたいんだよ。
さて、爆発がなぜ決別なのか。これはデッドエクスプロージョンマザーから説明していく必要がある。
”劇中劇”のデッドエクスプロージョンマザーでは病気の発覚から死に至るまでの間、母親を撮影した半ドキュメンタリーだ。母の命に自分の三年間を全て捧げた作品のラストを、よくある安易で衝動的なオチにするには到底できない。先生からの叱責での反応を見るに、自分の親をB級映画的コンテンツとして消化するつもりは毛頭なかった。爆発に帰結するまでの深い過程があるはずだ。
ここからは私の感想になるのだが、あの幼稚な爆発には、母親の死を直視しなければならない「しがらみからの解放感」のメタファーに思えた。そして、死ぬかもしれない母は爆発によって死んだ母へと死を確定させる「強制的な別れ」とも思えた。
「しがらみからの解放」と「強制的な別れ」この2つが『デッドエクスプロージョンマザー』に秘められている。そして、そのまま『さよなら絵里』にも適用できる。
『さよなら絵里』では、吸血鬼の絵里のいた建物を爆発させることで「強制的な別れ」をもたらし、死んだ絵里を追い求めてしまう「しがらみから解放」される。
だから、最後のページの主人公は、まるで肩の荷が下りたような安堵した表情している。
いや、3時間くらいのんびりしながらの文章はもう書けないわ。
文章の推進力はもうゼロ。
おしまい!
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