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家業の印刷屋で使っていた「インキ」と、父 二郎の調色。(1980年頃の話)


「井上プロセス」、ボクの父親方のおじいちゃんが創業した印刷屋の屋号だ。

おじいちゃんが何歳の時に始めたのかとかは定かじゃないが、
景気は良かったんだと思う。

個人商店でありそれがウチの家業だった。

スクリーン印刷てご存知ですか?
まあ、孔版印刷(ガリ版印刷)の一種、で特殊印刷と言われる事もある、
井上プロセスはそれ専門の印刷屋。

木枠の版とかアルミの版があってその中にインキ(強烈な匂いのする)を流し込んで印刷する。

そう。インクって言わないんだよね、「インキ」って言ってたな。

印刷屋と言ってもウチは「手刷り」。
取り扱う物は小規模生産品なんだけど、複雑な物が多かった。

大手は取り扱わない、数が出ない品とか本格的な発売を控えた試作品物が多かったように思う。

大量に使う「黒色」や「白色」はインキ屋さんが車で持って来てくれるんだけど、それ以外は「赤色」も「青色」も「黄色」も
常にそれほど工場(こうば)に在庫が無かったと今思い出している。
(使わない色のインキも大量にあったけど)

とにかく「黒色」と「白色」や「溶剤」はデカい缶で来ていたんだけど
他の色は当時小学生とかのボクが自転車のカゴに入れて持って帰れるぐらいのサイズだった。

値段も単色で3000円ぐらいだったと思う。

ボクは子どもの頃から
(小学校5年ぐらいだから1980年頃の話)
このインキをおつかいでよく買いに行った。

事前に父親「二郎」が電話で発注していて、ボクがインキ屋に自転車で取りに行く。
ウチが生野区田島2丁目、インキ屋何軒か取引はあったんだけどお使いで行くのは今里の方にあったインキ屋だった。

自転車で片道20分ぐらいかかったな、
もちろん無償じゃない。
行ったら二郎が「ママにもらって来い」と言い
だいたい100円とかお金がある時は500円とかを御駄賃としてもらった。

500円とか札でもらっていたので懐かしいな。

(因みにインキ屋には日に何度も行く時もありその都度御駄賃はもらっていた)


…気になった人も居られると思うが、
ボクを含めて妹達や弟も
「パパ」、「ママ」だ。

これが70年代〜80年代当時としてはまだ珍しくて
クラスメイトとかの前でうっかりとパパだのママだのと言ってしまうと
途端にからかわれるトップイベンターになってしまい
簡単にイジメに発展する子供達の世界だったのでそこは気をつけていた。


…話を戻してインキ以外に荷物を括るビニール紐やガムテープ、つまり資材を買い出しに行くときの御駄賃は100円とかそんなモンだった。

だけどボクは「井上プロセス」の実作業の手元(手伝い)も幼少の頃からやっていてその時のバイト代は1000円とかで、
当時のボクの年齢としては破格の金額を
作業した数時間で貰っており、
プラモデルであろうが本であろうが自分の好きな物が買えたのだ。
だから何でも買っていた。


井上プロセスは全て手による印刷だったので、
(実は機械もあったんだけど、何かで壊れた様で結局壊れたまま倒産時まで置きっぱなしだったな)
先ず印刷台に版をパタンパタンと開いたり閉じたりする蝶番の様なグリップ部分に留めてて印刷する生地を枠に合わせてセットし、版を左手でパタンと押し付ける。

右手に持つスキージという特殊なゴムのブレードを持つ工具(まぁ、ヘラの様な物)を使って適度に圧力をかけながら
(これが難しい…)
移動させて版に溜めているインキをデザイン通りにメッシュ地部分から印刷物にプリントする。

その後版を離すと印刷が出来ている。

と言う手順、イメージ出来るかな?

つまり、「プリントごっこ(現在は販売されていない様です)」のかなりゴっツいやつだ。

多色刷りの場合はプリントを乾燥させた後、同じ台で版を変えてまた生地を枠に合わせるんだけどビニールって伸びるのでこれの調整が大変だった。

すべて落ち着いてやらないとイライラしていては出来ない。

ウチみたいな印刷屋はシルクスクリーンと呼称する場合もあるけどそれは版のスクリーン部分がシルク繊維で作成されたもので
ウチなんかが使う版のスクリーン部分はポリエステル素材が主だったから正確には違うんだけどそれをひっくりめて更に略されて「シルク」とか言ってた得意先もあった。

とにかくそういうプロセスを経て印刷されたまだ製品になる前の生地(主に厚めのビニールやPP素材約0,3mm〜約1mmの肉厚)を印刷台から「爪」と呼んでいた特殊な工具で取り外して印刷物の干し台(ハンガースタンド)に干す。

どれぐらいやるかと言うと、最低でもその作業を500回転だ。
やる時は4000回以上とかやる。

無言で行う、とにかく同じ動作を何度もやる。

たまに版にホコリが落ちて来て気づかすにそのまま印刷するとそのホコリ部分だけが穴が開いたようになってしまう、それは「ピンフォール」と言い、もちろんペケだ。
版も痛めてしまう。

そしてそんな物が自動に消え去る訳ではないので1枚、1枚、印刷する二郎も手伝うボクも眼を皿の様にして早いリズムを保ちながら全て観る。

因みに二郎はよく見逃していた。

失敗は出来ない、損害に繋がる。
不良を出したら生地代もウチが弁償だ。


ウチの工場は古い木造家屋だから夏場は冷房も無くて、冬は離れた所にしかストーブは置けない。
エアコンが無かったのはボクの幼少の時代は夏でも30度ぐらいしか温度は上がらなかったから扇風機があれば何とか暑さを凌げた時代だったと言うのはある。
(忘れもしない、1985年辺りから夏がどんどん暑くなっていった)

冬にストーブを近くに置けなかったのはインキや溶剤は可燃物だからだ。
これがスゴい匂いを発していた。

工場はデカい鉄のプロペラの換気扇が2台回っているんだけど
当時は何人ものパートさんや、ウチに住み込みで働いている人も居たんだけど皆最初はこのインキと溶剤の匂いにやられてた。

とにかく、インキと溶剤の匂いがスゴかった。
ボクは生まれた時からの環境なんで何とも思わなかったけどね。


インキを買いに行って御駄賃を母親の成子からもらった。
この後プラモ屋の「谷模型店」に行こうと考えている、

ボクはもう一度工場に入った。

二郎が「調色」をしている、
二郎の調色は凄い。

微妙な色でも調子の良い時は時間もそんなにかからないし使うインキの量も少なかった。
(ダメな時、色が合わない時は一人で叫んだりしていたが)
どんな色でもサンプル品を見ながら
二郎は色んなインキをかけ合わせて調色した、短時間で。

こんなボロボロの設備しかない照明器具も色んな光が入ってきて木造家屋の色調が安定しない空間で
そのサンプルの微妙な色を
見た目通りに出していた。

地面に置いた何個かのインキ、
その上蓋でプラスチックの破片をヘラにしてインキを混ぜて
「…うん、こんなもんちゃうかな?」
と言って、椅子に座ってタバコ「エコー」を吹かして得意先に電話する。

自律神経失調症を患っていた二郎の受話器を持つ手はいつもブルブル震えていた。

それが印象に残ってならないが
ボクは父親二郎の調色を見るのが好きだった。


今年もそろそろ二郎の命日だ。
二郎が最後に飲んだお酒、
フォアローゼスを買ってきて命日の夜に飲むとしよう。

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