誰も損しない循環をつくりたい
なんでそんなことを思うようになったのか?
これはまだひと言で表せるほど、うまく言葉にできていないのですが、
そう思うようになった経緯や経験を書き連ねてみたいと思います。
フィリピンに行って感じた罪悪感と無力感
僕が大学に入学してすぐ、たまたま出会った先輩に誘われ国際協力サークルに入りました。理由は「夏休みはフィリピンに行ける!」からで、単純な好奇心で入りました。
サークルの活動が始まって、ドキュメンタリーを見たりしながら"貧困"や"機会の差"について学びました。そして自分達にできることを考えながら、夏休みの渡航準備を進めました。
実際にフィリピンに行って、「罪悪感」と「無力感」を覚えました。
ゴミ山を見学したり、インフラの整っていない地域にホームステイしたりしました。
そこではカメラを持っていることが恵まれていることでした。子供達の笑顔はとてもキラキラしていたけれど、たまに見せる少し羨ましそうな顔に罪悪感を感じたりしました。
それから無力感。確かに自分達は現地に行って、手洗いを一緒にしたりしたけれど「根本的な解決になっているのだろうか?」「そもそも何かを"してあげる"というスタンス自体違うんじゃないか?」と、違和感を抱えるようになりました。
シンガポールで感じたビジネスの威力
僕はそれから"ソーシャルビジネス"という考え方に出会いました。当時は、そんな格好いい言葉は使っていなかったし、特に新しい考え方ではありませんでした。
「三方よし」や「論語と算盤」と近いかもしれませんが、
ビジネスという、お金の流れを生み出す存在が、"社会にとっていいこと"を前提にして成り立っていたら、とても質の良いお金の流れになるんじゃないか。なんてことを考えていました。
それからビジネスの勉強をしようと思い、東京でインターンシップをしたり、アジアのビジネスハブであるシンガポールに留学したりしました。
シンガポールは、面積で言うと東京23区くらいのとても小さい国なのに、GDPも高くて経済的に発展した国でした。
そこで僕は、モノがなくてもお金を稼ぐビジネスの威力を感じました。
フィジーで過ごした日々と事件
とはいえ、僕はあまりビジネスの勉強は楽しめなかったのです。
なぜだろう?と考えると、
僕は目的や理由のあるビジネスに惹かれるんだ。と思ったのです。
そこで留学の夏休みを利用して「幸せの国フィジー」に飛びました。
宿がなくて彷徨っているところを、フィジーのおばさんに拾われて、そこに3か月間ホームステイをすることになりました。
フィジーの人に「あなたは幸せ?」と聞くと、当たり前でしょと言わんばかりのYesが帰ってきます。
僕を泊めてくれたファミリーも、毎日ジョークが飛び交って笑顔が絶えない日々でした。
とはいえ、貧困地域でもあったので、何度か悲しい事件が起きることもありました。ここでは詳しく書きませんが、今でも思い出して悲しくなります。
自分の認識次第で幸せにも不幸にもなれるということと、
いくら幸せでも起きる必要のない事件が起きてしまうことを同時に感じました。
解消できる社会の負は、解消した方が絶対にいい
いま厳しい状況にいる人は、もしかしたら社会のかたちによっては、きつい想いをせずに済んだかもしれない。
それはなんというか、どうしようもなくいやなんです。
もしも社会のかたちが変わるだけで、しんどい人が減るのであれば、変えるためにできることをしたい。
そのアクションは、
コーヒー業界では、サプライチェーンを変えることかもしれないし、
農業では、農に関わる仕組みを整えることかもしれない。
正解のアクションなんてないけれど、少なくとも自分が「今いちばん必要だと思うこと」に取り組んでいきたい。
こんな綺麗事を真剣に思っているのです。
なんで社会のために動きたいと思うの?と聞かれることも多いです。
お伝えしておきたいのは「社会のためだったらなんでもいい」訳ではないことです。自分が共感できる範囲があって、共感してしまったら、お節介のように何かしたくなる感覚に近いです。この辺りは母のお人好しが影響しているのでしょうか。
あと、欲張りかもしれませんが自分の存在によって社会が少しでも好転したらいいなと思っています。そこまでして存在意義を確認したいのかもしれません。
いずれにしても、〇〇だから社会のために!というのは、自分でもはっきりわかりません。
でも少なくとも「今取り組んでいることに情熱があって、これからも取り組み続けたいことをやっている。」これだけは言える気がします。
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