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自分史〜「先生」との出会い

6年生の担任発表。
正直、4年生、5年生とあまりよい担任とは自分では思えなかった事もあり、今度も、、という意識もあった。
そこで教頭から
「6年1組、成島純一先生!」と一言。
学校一の行動力を持つ、一番人気の先生だ。

実は4年生の時に1組の担任(私は4組)だったので、ありえない出来事だった。
※後から本人から聞いた話しだが、私に興味があったらしく、担任をしたいと申し出ていたとの事。

成島先生との一年間は、
私の人生を全て変える事となった。
この一年間についてはゆっくり書いていきたいが、まずは成島純一先生の事を書いていきたいと思う。
茨城県の学校教育界では知らない人はいないという存在になった成島先生は、2015年3月31日に退職されたと、様々なネット情報やブログで知った。その内容はマーチングバンドがほとんどだったが、もっと違う成島純一先生を書きたい。

成島先生の実家は金物屋で、それなりに地元では裕福な家庭として育ったが、高校の時に父親の事情で借金まみれとなってしまい、妹もいた事から、大学進学を諦め、家族を養う為に、金物屋関係の仕事についた。
毎日休み無しのような生活だったらしいが、家族を養う為にと、四六時中働く事しかなかったとの事。妹も学校を卒業し、家族も落ち着いた時に、やはり勉強がしたいという事で、通信教育で大学進学。そこで教員の資格を取得したとの事。
初めて赴任したのは、
クラスに6人程度しか児童がいない
非常に小規模な学校。
しかし、そのようなクラスの運営においても大変な苦労があったらしい。
たった6人のクラスでも、1人の子を対象にイジメがあった。幼い頃から一緒の6人なので、そのイジメもひとつの習慣のようになっていて、本人達にも全く自覚もなかったとの事。
成島先生がまずはじめにやった事は、
友達を呼ぶ時は、必ず「君」、「さん」をつけて呼ぶ事。けっして愛称やあだ名、チャン付けでも呼ばない事というルールを徹底させた。
かなり子ども達からは抵抗があったらしいが、あだ名そのものや愛称は、どこかで上下関係を作り出しているように考えたとの事。
数ヶ月後、当たり前に呼ぶようになった子ども達からは、周りを無意識に配慮するような環境に変わってきたらしい。
次にはじめたのは
先生と児童との「交換日記」。

全ての児童一人一人が毎日あった出来事や思い、なかには愚痴など、様々な事を内容に制限させずに書かせた。
先生は、毎朝全員から受け取り、その内容を全て読んで、感想や意見を書いて、帰りの会で必ず返すという事を繰り返した。

初めて赴任した時は4年生だったが6年の卒業するまで担任をしたとの事。
私は大人として働いていたこの6人と会った事がある、もう二十歳を過ぎていた人達だったが、本当に仲が良かったのを覚えている。

その後谷田部小学校に赴任。
谷田部小学校では、児童会活動の担当や
私達の同期の女の子達が全国大会に出場した
ミニバスケットの指導。
谷田部町対抗で様々な催しがあった春の球技大会、夏の水泳大会、秋の陸上競技会なども全て指導責任者として、全力で活動していた。

私達が6年生の時、
秋の運動会で成島先生がマーチングバンドの前身とも言える、いわゆる鼓笛隊の指導者となった。この時先生は、休みになると県内外のマーチングバンドを見学に行き、私達に様々なものを出来る限り取り入れていこうとしていたらしい。
私達の鼓笛隊の指導から
新たな児童への指導に興味を持つ事になり、
翌年には、本格的なマーチングバンド部を作りあげた。
その後のマーチングバンドに関する指導は
有名なものとなったらしい。
※参考
https://www.tsukuba-style.jp/blog/2015/03/10199.html

私は、この成島純一先生との生活、
一言一句は今でも忘れない。

今後、それらの事を書いていこうと思う。

#成島純一
#谷田部小学校
#茨城県つくば市

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