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「いいから俺たちにその『センス』を分けてくれよ」 〜センスのなさに悩み苦しむ子羊たちへ〜

先日、とある映像セミナーに出たときに「センス」について語られることがありました。

「たまにセンスがないという人がいるが、誰だって感動した経験や涙した経験があるはず。感動した=それがその人のセンスなんです」

意訳ですが、確かこんなことを言っていたような気がします。

多くの場合、センスが問われる場面は、
プライベートよりも職場の方が多いでしょう。

また「自分センスないな」と思う場面は、

  • 資料作成などの仕事で求められるアウトプット

  • スピード感を求められる質問への回答

  • 提出までに時間の猶予が与えられたクリエイティブ

など定性的な成果物、
とくに「アウトプットをあとからゆっくり振り返ることのできる成果物」
「他者と比較しやすい成果物」
に対して感じることの方が多いでしょう。


「センスがない」はどこから生まれるのか

私は元々、ライターとしてキャリアをスタートしました。

成果物=自分の文章だったので、
自宅の布団で突発的に、発作のような大声や奇声を出してしまうほどセンスがないと感じることは多く、
日本が銃社会だったら、いまごろ自分の頭に引き金を引いていたかもしれません。

ですがキャリアを積むごとに、
自分よりも歴の長いライターさんから学生ライターまで、
様々なバックグラウンドを持つ方達と、記事メディアの編集者としてお仕事をする機会が増え、
自分のセンスのなさに落胆することより、「他者のセンスをどう活かすか」にシフトすることの方が増えていきました。

そのなかで「自分センスがない」と思うことは、
極めて自分軸によってしまった考え方なのかなと感じるようになりました。

「自分」対「他人」で生まれる劣等感

とてもとても極端な話、
この地球に人間が自分ひとりしかいないとすれば、
自分の経験やアウトプットこそが、その地球における唯一の素晴らしい成果になるはずです。

しかし幸にも不幸にも、
私たちは尊敬する先輩、同僚、嫌いな先輩、地元の大切な友達や家族……
などが属する市民社会のなかで生かされているわけです。

比較対象になるのはさまざまで、
人間ひとりだけでは気付けない、
他者との違いや自分の弱みに気づけるのも、
(つらいものの)人間として生きる醍醐味でもあります。

つまり自分とは違う他人が、自分とは違うバックグラウンドや知識を武器に、
自分には思いもよらない視点で、
自分が生み出すよりも素晴らしいと思う成果を上げてくるから、
「自分にはセンスないんだ」と感じるのかもしれません。

センスとは「数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力」


「センス」をテーマにした名著、水野学さんの『センスは知識からはじまる』(朝日出版)では、
センスを「数値化できない事象のよし悪しを判断し、最適化する能力」と定義しています。

そしてその数値化できない事象の良し悪しを判断するには、
「普通」を知ることが必要で、
見たことがあるもの、知っているものを増やすことが重要と語られています。

冒頭のセミナーの話に戻ります。

「たまにセンスがないという人がいるが、誰だって感動した経験や涙した経験があるはず。感動した=それがその人のセンスなんです」

あなたが人を感動させる仕事をしたいなら、
自分自身が震えるほど涙する経験を沢山するべきだし、
自分が思う最高のサービスを提供するには、
最高の経験やサービスをたくさん受けるべきなんだろうなと感じました。

何かくすぶっているなら、
成果物を残すことももちろん大事ですが、
Netflixでもなんでもいいから自分の外から刺激受けるのがいいんだろうなと。

そして外部から浴びた刺激をしっかり咀嚼し、
自分が何を受け取ったかを考え、理解することがとくに大事なんだろうと思います。

……と、年間通して外食しまくり、ライブ行きまくり、
機材買いまくりでお金を経験に変えまくりの金欠ボーイなので、
自分を肯定する記事を書いてみました。

でも1日でも早くセンスほしいよね。分けて欲しいよね。

今日も自分のセンスのなさに苦しみながら、
ゆっくり羊を数えて眠りにつこうと思います。

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