おおよそ心理学の話

ちょっと小難しく聞こえる話だが、中身を細かくすると非常によくある話なので、わからない部分は流し読みしてほしい。

フロイト派とユング派の違いについて改めて調べていて、やはりフロイトしかわからんとなった。ユング心理学も体系化されてはいるが、私個人の心情として受け付けない。そして改めてフロイトの精神分析の理論を読む中で、やはりわかると思った。
どちらかといえば、ユングは陽で、フロイトは陰なのだが、師匠はフロイトで、ユング派弟子である。
ジークムント・フロイトは、心理学で言えばある意味色々な功績というか、実績というか、を持つ人である。これが功績と言い切れないのは、精神分析学が色々と批判されるためである。先ほどユングは陽で、フロイトは陰と表現したが、理論的にもまさにそうで、フロイトはある意味、人間の心理をより暗く分析した人とも言える。先に説明すると、フロイトの弟子(フロイトもユングのことを後継者だと思っていた)であったユングは離反しフロイトから離れていくのだが、おそらくはそういったフロイトの理論の暗い面にユングがついていけなくなったのだろうと思う。実際それが互いの理論に出ている。

精神分析学派というのは、心理学の中の一派だ。その精神分析学の祖が、ジークムント・フロイト。そこから、さまざまな諍いがあり、ユング心理学やアドラー心理学が生まれている。つまり、あれだけ弟子がいた上で、最終的にはフロイトは独りで精神分析学を作り上げたわけである。

フロイトの理論はこの2つに集約できる。
・リビドー(性的欲動)
・無意識

リビドー

フロイトの理論は、全てリビドーに基づいている。リビドーとは、簡単に説明するのが大変難しいし、これでは語弊があることはよくわかってはいるのだが、強いて言えば「性的欲求・願望」のようなものだ。
要するに、フロイトは性的感情を起因に、人の様々な行動が起きると考えた。なん、なんて説明したらいいのかわからない。難しいな。
あの、例えばエディプスコンプレックスもその一つ。男児が母親を求めると同時に、また父親という敵が存在し、それを乗り越えることで正常な発達が成されるという理論を、エディプスコンプレックスという。人生で一番最初に会う異性が母親で、男児は元々その世話をしてくれる母親のことをまるで自分の一部かのように感じているが、実際には母親も父親と婚姻しており、また父親という畏怖すべき存在をしっかり認識することで、正しい(ここで言う正しいとは、その父母の姿を見て、その男児もまた成長し、己も他の場所で異性を見つけ、また家庭を築こうとすること)発達が得られる、という内容。
要するに、赤ちゃんでも性的欲動を持っているよ、ということにしたわけで。それで、口唇期とか、肛門期、男根期みたいな用語が存在する。

無意識


Wikipediaより引用

これは、精神分析における無意識を図解したもの。
我々の意識は海に浮かぶ氷山のようなもの。水面に出ている部分を我々は普段から「意識」と呼んでいる。
水面に近い部分を前意識、自分では全く感じ取れない深い部分を「無意識」としている。

図の中に「自我」「イド」「超自我」という項目がある。

・自我
自分で意識している自分という存在のこと。こころのバランスを保とうとするもの。
・超自我
自分が持つ価値観のこと。倫理観や道徳感、何をして良くて何をしたらダメなのか、自我やイドを統制する役割をもつもののこと。ある意味こころのしつけがルール化されたもの。
・イド
本能のこと。イドが水面化にあるのは、意識でコントロールできないから。快楽欲求に従うもの。ご飯食べたいとか、気持ち良くなりたいとか、そういう本能レベルのことを求めている心の部分。

自我が、超自我とイドのバランスを保つことで、私たちは社会生活が送れているということになる。自我はバランサーである。
なので、ある意味自我のバランスが崩れると、例えば、超自我が弱ければわたしたちは本能に従いどこかれかまわず性行為をおこなうし、逆に超自我が強すぎると自分に厳しすぎてイドの発散ができずストレスが溜まり神経症になる確率が上がったりするわけです。

エディプスコンプレックス:
リビドーの項でエディプスコンプレックスについて書きましたが、ではこの「母親が欲しいが父親には勝てない」という葛藤が克服されない場合、どうなるのでしょうか。
→超自我の形成に影響がある。
本来エディプスコンプレックスが解消された場合、次に向かうのは「父の畏怖を乗り越え、同じように家庭を持ち、母親ではない女性を手に入れる」なのですが、そのような方向には向かないと。
極度に異性を嫌悪したり、また落ち着かず遊びにのめり込んだり、異性の親に似た男性や女性ばかり好きになったり、そういった問題(=超自我の統制が効かない)が起こるとされています。


フロイト、彼の生涯を知る限りけっこう変で。
父は40歳でフロイトが生まれ、またフロイトが40歳の時に亡くなっています。その父親の死にあまりにショックを受けて自分の具合が悪くなるという。それで、自分も分析医なのに、友人に分析を頼んだりしてます。
で、その父親の死がきっかけで「父親を畏怖していた、母親のことは好きだったのかもしれない」とエディプスコンプレックスの原型は生まれています。
なお育ちはとても良くて、上からも下からも母からも溺愛されて育っています。そして自身も若い頃にマルタ・ベルナイスという女性と結婚し、家庭を持つために開業医として医院を経営していると。ちなみにマルタにはやばい量のラブレターを送っていたとこのことで、自分が溺愛された経験をそのまま愛着として受け継いでいるものと思われます(ちなみに愛着理論を提唱したのは精神分析学より少し後、ボウルビィという心理学者)
ただフロイト自身は扱いづらいというか、ちょっとめんどくさかったようで、それこそユングやアドラーと袂を分つことになったり、友人との文通でBLかと思うような熱い文章を送り合ったりしていたそう。彼が神経症を患っていたことがとてもわかる。

ちなみにこれはメモだが、心理学を知りたいという時にやはり人から調べた方がわかりやすくて、書き置いておく。

・小児のカウンセリング:アンナ・フロイト、メラニー・クライン、ドナルド・ウィニコット
・愛着理論:ジョン・ボウルビィ、メアリー・エインスワース
・深層心理:カール・グスタフ・ユング、アルフレッド・アドラー

おすすめの本


それにしても、私が精神分析学が好きだったり、臨床心理学について知りたいのは、他ならぬ自分のためである。なぜ上手くいかないのか、自分のどこに問題があり、それをどのように解決できるかをずっと探している。わかったこともあるし、わからないこともある。しかしやはり、わかりたかったけど、わかりたくないことが多い。葛藤である。
おそらくいわゆるアダルトチルドレンなどは、本人の治療のために作られた造語なのだと思うが(大元や言い出しっぺが見当たらない)やりたいことはそれに近いと思う。アダルトチルドレンを治療の概念とすれば、要するに自分の中の大人になれなかった子供と対話するわけだ。そこから原因を浮かび上がらせで解決していく。わからないでもない。でもやはり、自分で思い出すというの自体がキツい作業だし、自分で自分の分析をやるみたいな状態というのは主観が入るしできないと、限界なんだと、そう思うようになった。

鬱病の友人がワインを飲みながら「普通の人は死にたいって思わないらしいね」と言っていたことを度々思い出す。確かに、今私は何かあっても死にたいとは思わない。よく考えれば不思議である。
しかし、そう考えてみると、普通の人は結局誰にも愛されないか、と急に落ち込んだりすることもないのだろうか。それともその思考そのものが病気なのか?一体どこまでが正常で、どこからが異常と呼べるのだろうか。思い出してみると、当たり前に死にたかったので、その状態が辛かったということは覚えていても、他の人がそうは感じないということが全く理解できなかった。なんというか、それこそ世界には自分一人しかいないと思っていて、自分以外の何者のことも理解し難かった気がする。自分の気持ち以外のことが全て余計に感じられたし、その時間が永遠に思えた。いつからそうではなくなったのか、よくわからない。何が原因でそう思わなくなったのかもよく覚えていない。



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