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「うまく喋れなかった」ときに生まれる、その話の意味

大前提として、
自分が喋ったあとはめちゃくちゃ落ち込みます。

けど、人様の喋りは、
次の言葉を出すまでに考える時間、
うまく言葉にできないこと、
悩んで出てきた言葉、
ほんとは他にもっといい言葉がないかと
脳内を探ったのであろうこと、

そういった、本人にとっては
『うまく喋れなかった』と感じる
要因になるであろうことが、
なんだか、あーすきだな〜、
もっと聞きたいな〜…という瞬間になるのです。


言葉を探してアーウーと言ったり沈黙したり、
そうしたあとに出てきた言葉には
より意味を感じるというか

とっさに適切な言葉が浮かばなかった結果しぼり出されたのかもしれない、きっと(声のトーンから)本人にとっては不本意な言葉なんだろうな、ほんとはなんて言いたかったのかな とか

考えて考えてとっさに見つけ出した言葉でその表情が光っていたりだとか。

「あのー…そのー…なんて言えばいいんだろう…」
って考えるときって、『どうでもよくない』思いを相手に伝えたいときだと思うのですよね。

その結果出てきた言葉がうまくつかまえられた言葉なのか不本意なまま絞り出した言葉だったのかはさほど重要ではなくて、そこに至るまでや声の表情も含めての喋りだと感じることが多くて、なので、そういう時間も含めてもっとお話聞きたいな、なんて思うことが多々あります。

なので自分が聞く側のときはありがたい時間なのだけど、話す側になったとたん、今しがた書いた『さほど重要じゃない』なんて考えは遠い星のかなたに飛んでいき、冷や汗かきまくり、不本意どころか見当違いな言葉を口から吐き出して、終わってから「ちゃうねん………」と、やっぱり落ち込むのでありました。


ちなみに、私は原稿のある喋りは大得意です。
たとえば絵本の読み聞かせ。

役割と知識のある喋りも得意です。
たとえば仕事の電話。

だけど、自分自身の考えをその場で話す、
これはめっぽう苦手です。

ただ、今までは、話したあとに
「あ〜〜恥ずかしかった…全然喋れんかった…」と
2~3日は悶々とするものの、いずれ落ち着くものでした。

それがどうでしょう、Zoomのヤツ。
自分の喋ってる姿が見えてたり、
あろうことか録画をあとから見たり、
これまで意識はしつつも見えてなかった
喋ってるときの自分が自分の目に映り込む。
これはけっこう強烈な体験です。

おいおいどうした、
天井にカンペでも貼ってるんか??
ってくらいチラチラチラと目が上をむいてるの、
全然気がついてなかったです。

自分のクセに気がついてからは、
天井にカンペ貼ってるひと
他にも意外といるわ〜と気づいてしまって
勝手に親近感を持つようになりました。

全然頼りになりませんよね、そのカンペ。


それはそれとして、日頃から頭の中が整理されていてることがうかがえるような、事前にきちんと準備してきたかと思うような美しいスピーチにはそれはそれはもう聞き惚れて、ブラボーと叫びたくなるような感動を覚える私です。

人が話してる姿は美しいなあという話でした。

おしまい!



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