フェス

先日、生まれて初めてフェスに行ってきた。会場では巨大なスピーカーから爆音が鳴り響き、その奔流の中で俺は叫んでいた。このまま俺をぶっ壊してくれぇぇぇぇ。と、心の中で。もちろん、現実的に考えて、服が自然と振動するほどの音の波を全身で浴びていたとしても、俺という主体はそう簡単にぶっ壊れない。そんなことは知っている。そしてさらに悪いことに、俺は俺がぶっ壊れることを、心の底では望んでいない。これはもう、揺るぎようのない事実としてある。

数年前に、合法的に幻覚を見ることのできるお茶を試してみたことがある。それはアマゾンの奥地でシャーマンが儀式に使うアヤワスカという秘薬を再現したもので、5000円くらいでネットで買えた。当時、滝本竜彦に憧れていた俺は、ワクワクしながらこのお茶を飲み、めちゃくちゃ吐いた。記憶の喪失と獲得を数分おきに繰り返し、ループする思考に閉じ込められ、瞼を閉じると極彩色の幾何学模様が、さらさらと水のように流れていた。この手のトリップではいかにリラックスできるかが重要なのだろうけど、そのときは、ただ自分が何処かに飛んでいってしまわないように大丈夫、大丈夫、大丈夫と唱えながら、布団の中で震えていることしかできなかった。

そんなわけで、俺は俺を手放せなかったのであり、ただの臆病な逆張り陰キャだった。だいたい、変性意識体験をどれだけ重ねても、俺は俺としてあり続けるはずだ。こうした体験で変わるのは心的現実であり、生きている限り、その風景を眺める主体としての俺は存在し続ける。龍神とコンタクトできるようになろうが、この混沌とした世界に秩序をもたらす真理に気付こうが、向こう側を生きる小人に出会おうが、観測者として、俺はある。

それでは、俺は何を欲しているのだろうか。ちょっと真面目に考えてみると、バイトで疲れきった脳みそから、救済という言葉がポロッと出てきた。そう、俺は救済されたかったのだ。何だかとってもしっくりくる、いい言葉だ。救済、救済、救済。

救済される為にするべきことってなんだろう。これはもう単純明快、祈ることに違いない。やったあ、この駄文もどうにかそれなりの場所に着地できそうだ。俺は疲れた目をしたサラリーマンに交じって、祈りながら家路を急ぐ。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。声に出してボソボソと、救済のための祈りを捧げる。

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