アクト・オブ・キリングと七人の侍

課題映画として選ばれていた、「アクト・オブ・キリング」と「七人の侍」。この二本の映画は、ジャンルや制作年等がかなり異なっており、鑑賞前は、全然別の話ならどっちも飽きずに最後まで見れそうだな、くらいに思っていた。しかし、いざ見てみると、共通するテーマもあったと感じた。

それぞれのあらすじは以下の通りである。

「アクト・オブ・キリング」

1965年、時のインドネシア大統領・スカルノが陸軍のスハルト少将のクーデターにより失脚、その後、右派勢力による「インドネシア共産党員狩り」と称した大虐殺が行われ、100万人以上が殺害されたといわれている、9月30日事件を追った作品。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BE%8D

「七人の侍」

前半部と後半部の間に5分間のインターミッション(途中休憩)を含む上映形式。前半部では主に侍集めと戦の準備が、後半部では野武士との本格的な決戦が描かれるが、「侍集め」、「戦闘の準備(侍と百姓の交流)」、「野武士との戦い」が時間的にほぼ均等であり、3部構成とする見方も可能。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BE%8D


最も印象的だったのは「七人の侍」のラスト、島田勘兵衛が今度もまた、また負け戦だったな、と漏らすシーンである。野武士を撃退し、百姓は意気揚々と畑仕事に勤しむ。そんな華やかな場面のあとに映し出される、仲間の墓所をバックにした侍の姿は、強烈なコントラストを生み出し、両者の間には埋められない差があるのだと訴えかけてくる。侍と百姓にはハッキリとした身分差があり、それは最後の最後まで彼らを分断し続ける。しかし、そんな中で例外も存在する。菊千代という人物である。

侍に憧れる、百姓出身の菊千代は、この映画の中で主人公のように振る舞い、対立する侍と百姓の間を自由自在に行き来する。そして、自らの奔放さゆえに、ミスを犯し、苦しむこととなる。

この菊千代が、プレマン(自由人)と呼ばれる、「アクト・オブ・キリング」の主人公、アンワル・コンゴに重なるのだ。民間人と軍人の中間で、やくざとしてアンダーグラウンドな生き方をする彼を、周囲の人々は自由だと言う。だが、他者を一切省みることなく、ただ自由に生きていくことなど人間には不可能であろう。アンワル・コンゴもまた、映画の中で自らの苦しみと対峙する。

中途半端な存在である菊千代とアンワル・コンゴの苦しみは、我々の抱く苦しみと何処か似たところがあるように思う。「アクト・オブ・キリング」の中でかつあげをされる民間人の諦念と、「七人の侍」のラスト、島田勘兵衛の抱く悲しみは同種のものなのでは無いだろうか。映画の中で百姓、侍、民間人、軍人として登場する人々は、自らの役割を忠実にこなしている。その瞳には、ただ巨大なものに翻弄されることへの諦めがある。しかし、揺らぎの中を生きる菊千代やアンワル・コンゴの苦しみはそれらとは別種の、自由意志に雁字搦めにされがちな我々にも、少しは理解できる類いのものなのではないだろうか。


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