グルーヴ感

母方の祖母は魔女のような人で、中国地方の山奥に住んでいる。場所が場所なので、母も滅多に帰らないのだが、九月の連休に叔父が赤ちゃんを連れて帰るということで、久しぶりに集まることになった。その日は敬老の日だったのだ。親族が全員集合するのは数年ぶりで、面倒だなと思いつつ、すぐにバイト先へシフトに入れない旨を伝え、新幹線のチケットを予約した。

古い木の香りがする廊下を抜けて、祖母の描いた絵と暖炉、そして観葉植物が印象的なリビングに入ると、真っ先に赤ちゃんが目に入った。叔父の子供、つまり自分にとって従兄弟にあたる赤ちゃんは生後7ヶ月で、なんだかむっちりしていた。抱っこさせてもらうと、ずっしりしている。母が壁にかかっている絵が変わっていることを指摘する。それを赤ちゃんと一緒にぼーっと聞く。

グルーヴ感というのは、そもそも音楽用語だし、フェスやライブで味わうものだと勝手に思っている。しかし、その一方で、親族と会話していると、これもそうなのかな、と思った。血が繋がっているからと言って、趣味嗜好や性格が似通っているわけではなく、みんなバラバラの人生を歩んでいるはずなのに、妙な一体感がある。ゆるゆると取り留めのない話をしていると、大きな流れの一部になったような気がしてくる、多分グルーヴィーだ。この感覚がただの身内ノリではないと思うのは、何故だろう。祖母の絵を中心にして、繋がっているからだろうか。

芸術作品を鑑賞する際には、その作品と受け手の間に、何かしらのコードが共有されていないと楽しむことができない。それはタイトル等の言語的なものなのか、感覚映像に訴えかけてくるものなのか、人によって様々なのだろうけど、何かしらの繋がりがあることは確かだ。そういう意味では、音楽と絵画には似たところがある。音楽が生み出すグルーヴ感に対して、絵画や親族関係を媒介にした会話のグルーヴ感が存在してたら面白い。

そんなことを考えていると、年の離れた従兄弟がニコニコしていた。赤ちゃんは可愛い。そしてどうやら、人生は長い。

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