明治二十六年六月十九日 平野トラ身上願

さあ/\尋ねる事情/\、身上どういう事であろう。こんなもの尋ねるまで。心得んから尋ねる。尋ねば諭そ。日々という。遠く所より又年の寄らん者一寸や。若い者寄り来る処厄介、世界から見れば厄介。なれど道から厄介ではない。道から十分大切。道は遠かろが言わん。たすけ一条と言う。これ聞き分け。十のもので九つ半大切して、半分だけ出けん。十のものなら半の理で九つ半まで消す。よう聞き分け。喜ぶ者は少ない。成る事情いんねんである。いんねんというは面倒いなる者も寄せる寄せる。皆運ばすも同じ理。出て救けるも内々で救けるも同じ理、いんねんならどんな者もいんねん。道の処は重々掛かり、これから先掛かりの者そこで入り込む。年の行かん者我子より大切、そうしたなら、世界からどういう大きい事に成るやら知らん。すれば、そんだら何が間違うてある。日々という、言葉一つという。これ聞き分けてくれるよう。

このおさしづの大意として、『天理教郡山大教会史その一』では、

 年の若い世話のかかる者を教会に寄せることは、厄介のようであるが、たすけ一条の道から考えれば、外に出ておたすけに行くも、内々でたすけるも同じ理で、道の上から青年を仕込む事は、極めて大切な事である。年のいかん者を我が子より大切という心で育てるなら、その理はどれだけ大きい事になるやら知れん。日々、言葉一つに十分心して若い者を仕込んで行くように、と、おさとし下された。                           (197〜198頁)

と記されている。

割書の平野トラとは、郡山大教会初代会長・平野楢蔵の妻。明治十九年、夫・楢蔵の奇跡的な御守護から夫婦ともに入信。

郡山分教会(当時)設置後二、三年間に平野夫婦が頂いたおさしづには、教会に集まって来る者はどんな者でも、たすけ一条の親心で育てて行くように、育てる親心によってよふぼくもできて来るのだから、という事を度々おさとし下されている。

本部では明治二十六年六月十三日「前旧廿七日晩の会議の件分支教会長の子供衆十五六才の者本部へ小使に引立の事願」とおさしづを仰がれているように、この頃から、直轄分教会、支教会長の子弟を青年として仕込んでいく事を問題にされるようになっている。