明治二十六年六月十九日 平野トラ身上願②

『郡山大教会史』の他に、「平野トラ身上願」に関して触れている解説書を調べてみると、下記の資料が見られる。

 ①桝井孝四郎『おさしづ語り草 下』157・172頁

 ②深谷忠政編『教理研究 事情さとし』54頁

 ③高野友治『おさしづ物語』174頁

 ④澤井勇一『おさしづを読む』148頁

 ⑤安井幹夫『今日は晴天、今日は雨』192頁

①②③については、どれも青年を仕込むことについて解説している。

④⑤に関しては、解説中に時代背景については触れていない。

桝井孝四郎『おさしづ語り草 下』(159〜160頁)では、

日々という遠いところから、また年のいかん者、年の若い者寄り来るのが厄介、なるほど世界から、人間心から言うならば、厄介でもあろうが、道からすれば厄介ではない、道から十分大切とおっしゃる。道から見たら十分大切。道は遠かろうが言わん、たすけ一条と言う、これ聞き分け、十のもので九つ半大切にして、半分だけでけん。十のもの半の理で九つ半まで消す、なんぼ道大切にしても、こんな小さい子供くらいというてほっておいたならば、半の理で今日までせっかく通った九分九厘までの道の理を消してしまう、とおっしゃる。九つ半大切にして、半分だけできん。十のもの半の理で、九つ半まで消すようなものである。よう聞き分け。喜ぶ者は少ない、子供が入って来て厄介やなあと言うて喜ぶ者は少ない。こうなるのもいんねんである。喜ぶ者は少ないけれども、こうなってくるのも神様の思惑である。こうなる事情はいんねんである。いんねんというはたとえ面倒な者も寄せる。いんねんならば寄せにゃならん、面倒な嫌な者でも寄せる。皆運ばすも同じ理、出て救けるも、内々で救けるも同じ理、こちらから救けるも、元からうちへ引き寄せて救ける、たすけ一条には変わりはない、みな神様が引っ張っておられるのである。うちうちで救けるも、同じいんねんならどんなものもいんねん。道のところは重々かかり、これから先かかりのもの、そこで入り込む。年のいかん者、我が子より大切―― 

とある。深谷忠政編『教理研究 事情さとし』(54〜55頁)では、

「道一条へ」 (3)教会入り込み(住み込み) ②地方教会入り込み

の中で、

日々、遠方より、また年の若い世話のかかる者が教会に寄ってくるのは厄介のようであるが、たすけ一条の上から言えば厄介でない。道の上から言えば十分大切にしなければならぬ。
いんねんならば厄介者も寄せる。外に出ておたすけに行くのも内々でたすけるのも同じ理である。道はこれからであるから、どんな者も入り込む。年のいかん者は、わが子より大切という心で育てるなら、その理はどれだけ大きいことになるやらしれぬ。日々言葉一つに十分注意して青年を仕込んでくれるよう。
教会入り込み青年を育てる立場の者の心得について、親神のご意向がうかがえる。

と記されている。高野友治『おさしづ物語』(174〜175頁)では、

若い者が寄り来るところ厄介と思うであろうが、道のものは厄介といってはならん。大切に育ててやってくれ。遠い所のものと言ってはいかん。これも大きいおたすけである。
おたすけを十とすれば、事情身上たすけは九分半や。後継者を育てるのはただの半や。それで九分半だけ大切にして、半を放っておく。そうしたら、なんぼ布教が盛んで、お道が隆盛になったといっても、後継ぎがいなければ、せっかくの繁栄も一代限りで終りとなるではないか。
教会を出て、世の中にあって、人々を救けて歩くのもおたすけなら、教会の内にいて、後継者を育てるのもまたおたすけである。同じ理である。事態こうなるのもいんねんである。(と申されるのは、平野夫妻は子持たずでした。それで来生は子供を授かるように、今こうして、他人の子供を育てさせてもらっているのだ、との意味でしょうか)
こうして、よその子供を大切に育てたら、この子供たちが世界に出てはたらき、どんな大きい働きをしてくえるか分からん、とおっしゃっていると思います。

と記されている。

同年六月二十一日のおさしづに「山瀬の子息二名を教会へ入れる事願」という伺いに続くことを考えると、相当の人数を教会に集めて育てていたように思われます。子供たちの世話取りを教会内の婦人たちが担ったとすると、その責任者は、会長夫人である平野トラであったでしょう。