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何者かになんて一生なれないぞ、でも自分が自分であることもやめられないぞ。

このロゴを見た時に圧倒的な違和感と少しばかりの恐怖を覚えた。 誰かの呪いや憂鬱や葛藤が重なり合って強い力の源泉になる。

強く背中を押される感覚。一人じゃないという陳腐な言葉では到底言い表すことの出来ない、共同体であることによる十字架の重さと力強さの表裏一体。

僕らのクリエイションの源泉は到底ポジティブではない所から来てる。コンプレックスとか自己嫌悪とか承認欲求とかすごくエゴイスティックな部分。でもそこから目を背けないからこそ、強烈に誰かの居場所になるコンテンツができる。

これは僕の高校二年生の頃の写真で、当時の僕は洋服が唯一のアイデンティティだった。高校時代の僕は自分がひどく嫌いだった。中高一貫の進学校に入ったのでみんな頭良いし部活もレギュラーでなかった。朝練とか頑張って行ってたけど最後の試合とかそんなに出れない、微妙なタイプだw 中学時代は一心不乱に打ち込んでいたけれど、高校生の途中でやめた。勉強もできないし、部活もやってない、別にルックスもよくないし、大して面白くもない。

そんなぼくの逃げ場が洋服で原宿の古着屋で、そこで出来た友達だった。奇抜な格好をして写真を撮られてブログで発信して、同級生とか先輩にバカにされて。それでも、ファッションが自分から抜け落ちたら、何もなくなるという恐怖があった。当時、原宿のGAP前に屯してた人(僕はそこは怖くていけなかった)も同じような感じだったのかなと今考えると思う。

人が集まる場所には必ずネガティブな理由が存在している。例えば常連だけの馴染みのバーに行くのは明るい話をするためじゃなく安全な場所で愚痴を言うためだろう。

自分を慰めて、自分の存在をみんなで認めあって。ホッとして。 コミュニティなんて、綺麗な言葉じゃ到底捉えきれない。そんなキラキラしたもんじゃない。

誰かに認めてほしい。何かで認めてほしい。誰よりも自分が、自分のことを認めらずの人生だったからこそ、ここじゃなきゃいけない、ここでこそ息ができるそんなモノを創り続けたい。

カイシャという枠を超えて、クニを興す。
この国に、ユートピアを創るという僕らのビジョン。

そんな憂鬱と力強さの表裏一体を痛烈に表現してるロゴだ。ひどく気に入っている。

さて、設立から一年たち、カイシャにまつわる記号をアップデートした。

このロゴを作るにあたって、およそ55人の方に協力してもらった。
僕らの社員や株主の皆様はもちろんのこと、ただyutoriを応援してくれてるという方も。クレジットを見てもらえば分かるけれど、なかなか”おだやかじゃない”方がだw

僕という個人なんて完全に飛び越えてyutoriという火は大きくなり続けている。僕らが火をおこしているのではなくて、僕もその人を取り巻く一員に過ぎない。この炎の行く末を期待と不安を混ぜながらみんなが面白がっている。

僕らが少しだけれど、こうやって人を惹きつけるのは"強烈な臭い"がするからなんだと思う。

自分たちの汚い自分も、認めたくない自分も、ちゃんと見ようとしてるから。辛いけどね。どこもかしこも、何者かであることを求められ、何かをちゃんと説明する必要があって、なおかつポジティブな感想を持たれないといけない。貶されるより褒められたいに決まってるんだから、自分らしさを大事にしたいと思っても、他人の承認を求めてしまうなんて当然だろう。でも、そうしていくうちに自分の嫌いな一部を殺したくなったり、誰かと交換したくなる。好きな部分しか認めれなくなってくるんだ。

でも、自分をやめることはできないぞ。

輝いてる他人より、濁った自分を見に行くんだ。イタイ自分も、ダサい自分も、恥ずかしい自分も置き去りにしちゃダメだ。みんなまとめて連れてくのさ。

僕らはどんな自分も許すから、全部まとめてもっていくから。ついでにみんなのことも一緒に連れて行っちゃうから。これからもよろしく。

そんな気持ちを、このロゴに込めた。
https://yutori.tokyo

「洋服が好き」という気持ちで、好きな人と好きなことをやっています。