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俺は起業家になり、親友はメジャーデビューした。あるグループが解散した後の話。

2013年の秋、赤髪の後輩(名を光平という、ずいぶん"タイソウ"な名だ)と明大前のすた丼にいた。僕は明治に通っていて、アカペラサークルに所属をしていた。楽譜は読めない。

中学生時代、ハモネプが流行り友達がボイスパーカッションなら出来るんじゃないかと複数人で初めた。ただのノリだ。(思えば自分の人生で自分が意気込んで始めたことってない。友達が勧めてきた、とか、たまたま伸びたから、とか成り行きが多い。)その日のうちにそれとなくできるようになってしまい、辞める理由もなく、続けた。

話を2013年に戻す。明治のアカペラサークルは新入生が40ー50人くらい入ってきて、各々バンドを組み自由に活動する。人気者は複数のバンドを兼任し、はぐれものは一つも組めない、なんてことはある。一つ下の赤髪のボーカリストは突飛すぎたのか、思うようにバンド活動をできずにいた。が、彼には歌いたいことがあるんだなという気がした。歌が上手いのは勿論だが、歌を通して何かを伝えたい男だった。

彼は「組めないし、もう観る側でいい」と言ったが、その瞬間に自分の中でのスイッチがなぜか押された。俺が一緒にバンドを組む。彼がスターダムに上がったら、なんか俺はカッコ良い気がする。そんな邪な気持ちと、純粋な気持ちが織り混ざっていた。希しくも、同じような境遇のルックスが良くて気が合う友達があと四人ほどいた。みんななぜかはぐれものだった。俺たちはバンドを結成し、心を盗むでスナッチという名を映画から拝借し、キザすぎるアカペラグループが結成された。

活動期間は3年ほどでその期間もいろんなことがあったのだが、結論から言うと卒業と同時に解散した。卒業のタイミングでは新宿のRenyというライブハウスで600人ほどの人を集めて有終の美を飾った。何故それだけたかが1大学生が人を集められたかというと、僕らはミックスチャンネル(今でいうTiktok)を本当に上手にハックしてSNS上での人気がそこそこあった。今思えば、このタイミングで活躍せずにyoutuberとして活動するという世界線もあっただろう。だが、僕らは物語をそこで終える決断をした。

理由は色々あるが、発起人である僕は音楽家として生きていくことには全く自信を持てなかったからだろう。音楽と洋服はカルチャーという形容詞で包括的に語られるが、音楽の属性を持っている人と、洋服の属性を持っている人は全く異なると、今では思う。第一、ステージで格好つけるなんて個人的には恥ずかしすぎる。自分の思ってることは、こういう内省的な文章か、Tシャツのプリントでそれとなく語るくらいが僕の身の程にはあっている。

解散が決まった後、光平は、音楽で生きていのか、就職して生きていくのか、狭間で揺れ動いていた。当時の僕は彼に歌い続けて欲しいと思ったが、自分の言葉で彼の背中を押すのではなく、信頼のできる第三者の言葉に委ねようと思った。リーダーをしていたのになんとも無責任な話だ。僕の就職先を紹介してくれた人材会社の事業部長である瀬名波という男だ。九州男児というか、なんとも豪快で、背丈が大きくて、言葉を研いでいる人だった。あくまで1ユーザーにすぎない僕に真正面から向き合ってくれた。ちなみに今でも四半期に一回くらい飲みにいく。それからyutoriという会社が出来たのも、実はこの人が紡いでくれた縁からだがそこを話すと長くなりすぎる。

僕は、30分のMTGの約束を取り付けた。光平は愛を受けて育ったもんだから、親の期待に応えたいと言った、親のために就職した方が喜ばれるんじゃないかと。でも、彼は「親の人生じゃなくて自分の人生だ。自分が歓ぶほうに行けば時間はかかっても親も歓ぶ。親とはそういう生き物だ。」と言った(本当はもっとセンセーショナルだったがパブリックな文章として曖昧にしておく)わずか30分の時間であったがこの瞬間に彼はイレギュラールートを選択した。パッキリと、世界線が分かれたのだ。人の人生が変わる瞬間に遭遇したと、当時でさえ思った。この言葉は彼の背中を押したようだ。

この文章を読んでいる貴方なら勿論分かると思うが、その4年後僕は洋服の会社の代表になり、二期目を終えようとしている。そして、光平は2020年にメジャーデビューを決めた。そんで背中を押した瀬名波さんと三人で飲んだ。4年越しの答え合わせを池尻の橙とお店でした。本当に最高の気持ちだった。

彼は音楽が、歌うことが、歌を通して自分の気持ちを伝えることが好きだ。ステージに立って表現者の道を追求していくのが好きなんだ。そして、俺は洋服が好きだ。自分の主張を洋服にそれとなく忍ばせて洒落を利かすのが好きだ。洋服を通して商売することも好きだ。表現者ではなくて、起業家として自分のエゴをポップに昇華させて少しずつ仲間が増えていくのが好きだ。俺たちは好きなことは違うが、好きなことを好きと言えるところが、何より好きだ。

「好きなことを好きというたったそれだけの言葉が僕らには足りない。心が死ぬ前に好きの産声をあげよう。」会社を興した時に書いた一説の文章には、とても大事なことが書かれていると今改めて思う。安易ないいねや、浅い共感はうんざりだ、そんなまやかしに囚われたら本当に好きなことなんて見つけられなくなる。かく言うぼくも起業当初、好きなことで始めたつもりが、自分が何が好きかはおろか、自分がどんな人なのかさえも忘れてしまっていた。

不安や焦り、他人との比較、誰かに認められたい褒められたい、それらの感情は勿論人間にとって当然存在する感情だし、あって当然で、あることは必ずしも悪いことでもない。ただ、ありすぎることはダメなんだ。心に巣食う承認欲求の化け物はいつしか自分自身を飲みこんでドラッグ漬けみたいにしてしまう。

でも、ふと会社に書いてあるさっきの言葉を見返した時に気付いた。俺は仕事が終わってもインスタで洋服を見てるし、休日は息抜きに古着を買いに行くし、10年変わらず毎月訪れるお店だってある。正直なんで俺はこんなに洋服や、古着や、それらの周辺にあるカルチャーが好きか。それっぽいことは言えると思うが、深くにある部分は言語化できない。でも、それは別にいいんだ。無理にわかってもらう必要もない、そんな努力をしなくても汲み取ってくれる友達がいて、そんでその臭いが少しずつ広がってブームじゃないムーブメントをおこしていけばいいんだ。 実際自分を取り戻して変に焦らなくなってから業績も会社の雰囲気も良くなったと思う。

本当に好きなことを続けていくのは少しばかり遠回りかもしれないけれど、こんな最高な気分になれるなら自分の本音を忘れちゃいけねーって強く思った日だった。光平ありがとう、おめでとう。あと優之介、お前も早くこっちこいよ笑。


「洋服が好き」という気持ちで、好きな人と好きなことをやっています。