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98.「カタカムナ文明と現代物理学の重合 による新文化の創造」

皆さん、こんにちは。天野成美です。

今日は、カタカムナウタヒ、現代物理学の重合による新しい文化の創造について書いていきたいと思います。

孔子の教えも釈迦の教えもキリストの教えも、又、古今東西のもろもろの宗教や哲学の思想も、要するに、天とか、仏とか、神とか、霊とか、絶対、太極、永遠、根元、秘奥……等の用語によって、 『アマ』を象徴し、 『アマの心』に相似することを説くものに他ならなかったことがわかってみれば、自分の宗教のみが正しく、自分の認識のみが真理であるとして、さまざまのトラブルを起こす必要は全く無かったのです。
又、「真理はヒトツ」とか、「登る道は異れども同じ高嶺の月をみる」と達観した人々も、それなら、その真理とは何か?同じ高嶺の月とは何か?と追究されれば、漠然とした、文学的神秘的表現にまぎらわすしかなかったのも、実は、それらの人々が、 『相似象学』という、「ハッキリとした認識」をもたなかったからです。

私達は、現代の自然科学を否定したり、敵対するような、大それた、又ある意味では、「前近代的」に素朴な考えで言って居るのではありません。
そうではなく、むしろ私達は、自分自身科学を学んだ近代人として出発し、たまたま、はがらずも触れたカタカムナの文献により、深く自らの態度を反省させられた立場からの発言なのです。

要するに、自然科学が、その従来の態度のままで、生命や宇宙の因を実証的につきとめようとしても、それは不可能なのだという事実を指摘したいのです。
なぜなら生命や宇宙の根源は、現象界の中にあるのではなく、それは、天然(アマ)の潜象の中にあるといふ、カタカムナの直観物理の方が、正しいと思はれるからです。
天然(アマ)に関して、「自然科学」が、実証的になし得ることがあるとすれば、それは、そうした手法では、天然(アマ)の構造や性質は、把握できるものではないという、「逆」の証明のデータを揃えることであると思います。
自然科学は文字通り「自然を探求する学」であるから、いはば自然が天然の「一部」であるように、近い将来に於ては、自然科学の諸部門は、天然を相手とする 『天然科学』の一部分を受けもつことに、それぞれ整理されるであろうと思われます。

カタカムナの直観物理は、この 『天然の哲科学』の成立の基礎の、草分けとも言うべきものなのです。
要は、その「直観物理」なるものが、低次のひとりよがりな信悪性の薄いものではなく、高度の自然科一学をマスターした人々にとっても魅力的あり、信頼するに足るものでなければならぬという事です。私達は、このカタカムナ文献が、立派にその期待にこたへてあまりあるホンモノである事を、アヤマリなく伝へるべき立場にあります。

私達は、私達の遠い祖先のカタカムナの上古代人が、その豊かな鋭い直観力によって示して居る英知を、近代人の知性を以てとりあげ、自然科学の知恵をも包含する、人類の真の 『知恵』に結集してゆくことにこそ、カタカムナ人の手孫としての当然の責務があると思うのです。

今日はここまでです。

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