113.「カタカムナの感性を温存していたアシンメトリー縄文時代の力強さ」

  今日はカタカムナの感性の中で温存されていた、アシメントリーな姿の美、すなわち縄文時代に引き継がれた力強さのあるものについて書いていきたいと思います。
 今のところ日本最古の遺物とされて居る縄文前期の発掘品には文句なしに、我々を感動させる力強い迫力があります。その力強さと言うのは、もう現代人にはマネのできない、豊かな生命力の発現です。そうした力強さは、他民族の古代の遺物からも感じられ、それらが、人類に普遍の「美」の真理を衝くものであればこそ、現代人の美感覚にも訴えうるのでしょう。
 天然自然は、人間が気がつかなくても、つねに「美的生産」を続けています。天然自然の許容力は無限に大きく、彼らの側から人間に挑戦してくるものではありません。人間がそれをサトリ得た分だけ、その機構が明らかになってくるのです。人間が天然自然に反抗して、人間独自の美をつくろうとしても、所詮人間は生きて居る限り、天然自然の支配をまぬがれる事はあり得ず、たとえ、さからって死んでみても、天然自然のフトコロに還元する速度を少々早めただけになります。
 シントメリーを「美」と感じる美学に対し密度差のある偏りやヒズミをも「美」と感じる「感じ方」を我々日本人はカタカムナ以来もっています。しかし、カタヨリやヒズミは、不安定な状態で、本来は、偏りやヒズミのない状態に復元しようとする動きが伴っています。しかるにカタヨリやヒズミの「美」にひかれすぎることは、偏執的な好みにふける事になり自虐や自滅の危険に陥ります。
 どんなに頑張っても、カタチに表れたものの「背後」(カム)に最も根元的な「ヒビキ」を感じるだけの「直観力」なしに、芸術を創作し「美」を究明する行為が「マトモ」に動き続ける筈はないのです。カタヨリやヒズミに「美」を感じうるのは、その「背後」に働いて居る目に見えない「大きな力」を見ているからこそであると思われます。しかるに、ただカタヨリやヒズミをもてはやせば、いたずらに変わったことを追って、ゆきつく所は破滅しかありませんが、「美学」の理論としては、それも一種の、反の美といえない事はありません。
 人間が、天然自然の風物や、人間の肉体や頭に「美」を感じ、しらずしらず「美」にひかれ、美を求めて研鎖するのは、鳥や虫や花や獣の世界にも通じる普遍のスガタがあるからです。則ち、女性を求めて、男性の間に陶汰が行われ「男性美」の選択権は女性にありますが、女性もまた、そうした陶汰に堪えた優秀な男性の愛情と好みにこたえて「女性美」を高め、そのように男女が相互に研鎖することにより、劣ったものは亡び優れた種族が生き残る、というのが、健全なスガタです。
 人間が、天然自然の「美」にひかれて、しらずしらず、みづからを高める結果になるには、要するに天然自然の「美」を感応して、みづからを「励起」するからである。そして、みづからの振動が高まり、天然自然のヒビキに感応しうるまでに高調したときに、人は、天然自然の「美」の根元を、カイマミル事ができるわけです。そのような「美」の「根元」を知りたいと希求する思いは、人間の最も純粋な知性の発動であり、どんなに強い物質や名声や知識等の欲求よりも、高次のものです。なぜなら、「美」の「根元」を知るということは、字宙の森羅万象を生み我々の生命を営むモトを知ることになるからで、それが「アマ始元量」である事をカタカムナ人は悟っていたのです。
 美にも、さまざまな種類や、スケールがあるし、又、「たで喰う虫もスキズキ」ではありますが「美」の感覚の洗練のマトモさの基準は、どこに根拠があるのかと言えば結局アマの密度差、則ち、「奇妙サ量」の多寡によるという事になります。
  要するに、彫刻や音楽等の芸術的創造も、人間の側の能力だけで、真の「美」がつくられるものでは決してありません。といって、そこに神秘思想をもちこむ必要もありません。芸術のみならず、凡そ宇宙の万物万象の成り立ちや、機能構造の根源にアマ始元量の存在を直観したカタカムナ人のサトリによって、私達は、初めて美というものを発動する根拠を知ったのです。


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