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東海遊里史研究会トークイベントを開催して。

2023年5月13日、東海遊里史研究会の同名研究誌3号の出版を記念して、吉原遊廓跡に残る最後の引き手茶屋・金村にて、カストリ書房主催のトークイベントを開催しました。

東海遊里史研究会は、東海地方の遊里を研究する同好の三士(ことぶきさん、春は馬車に乗ってさん、自然誌古典文庫D室さん)によって組織された遊里史探求グループです。

同誌は2022年1月に創刊号をリリースし、短期間で精力的に発行を続けて今回で3号を重ねています。

去る2022年1月24日には、名古屋市で同会のトークイベント第一回が催され、これを書いているカストリ書房・渡辺豪も登壇の栄誉に預かりました。その返礼も兼ねて、今回、東京は吉原で実施の運びとなりました。

会場となった20畳の大広間を備えた金村では、このご時世、22名のキャパが精一杯でしたが、イベント告知から1週間足らずで、SOLD OUTとなりました。(第二回も積極的に企画して参りたいと思いますので、是非Peatixからカストリ書房をフォローしてください)

加えて同イベントでは、おひねりを頂戴して、合計7名様よりお志を頂戴しました。この場を借りて、改めてお礼を申し上げます。頂戴したお志は全額同会メンバーにお渡し致します。

今回は同会メンバーのお二人、ことぶきさん、春は馬車に乗ってさんに加えて、同誌3号に寄稿した花町太郎さんをお迎えして、各人2講演、計6講演、時間にして15:00から19:30と約4時間に渡り、たっぷりと語って頂きました。

以下が登壇テーマとなります。

ことぶきさん

  1. 『戦前名古屋の遊廓 名古屋最大の盛り場、大須と旭廓』

  2. 『戦前名古屋の遊廓 100年前に誕生した大歓楽街、中村遊廓』

春は馬車に乗ってさん

  1. 『芸妓街から特飲街へ 赤線八幡園の誕生と終焉』

  2. 『名古屋市の夢・港陽園 戦後復興計画が赤線を産んだ』

花町太郎さん

  1. 『藤枝新地誕生史を語る 明治期の藤枝貸座敷について』

  2. 『藤枝新地誕生史を語る 新地開設後の様子について』

三者三様、これまで見過ごしにされてきた史資料や視点から考察を加えた講演内容は興味尽きないものでしたが、私個人の感想としては、戦中史の解明が白眉でした。

遊廓に興味がある人ならば、調査の過程で各自治体が発行する市町村史をめくった経験がおありの方も多いと思います。そして、市町村史において、遊廓はどこか軽視された扱いを受けているのみならず、アジア・太平洋戦争のくだりになると、一層扱いは少なくなる傾向があります。

近世や近代の章では、街の賑わいを伝える一コマとして遊廓が引き合いに出されて饒舌に説明されるも、戦中に及ぶと、例えば「華やかだった紅灯街も、戦争が熾烈になるにおよび一軒また一軒と明かりが消えて寂しい街となった」など、1〜2行の扱いになり、さらには戦後の13年間をすっ飛ばして、売春防止法で遊里史の扱いを終えているいることも少なくありません。

なぜこうした扱いとなっているのか、いまだ明確な理由は掴めていません。戦中・戦後の混乱で史資料が残りづらかったことは一因とはいえ、それがすべてとは言い難い印象があります。

私見ですが、遊廓をある種、社会とは無縁な、良くも悪くも〝別天地〟として扱い続けてきた社会的断絶の結果の一つなのではないでしょうか。

断絶を換言すれば「私には関係のない他人事」との感覚は今なお尾を引き、遊廓の歴史的価値を定められず、建築といった史跡を積極的に残すこともできず、過去の解明すら後手に回っているのではないか、そう思えます。

近代の大きな悲劇の一つである総力戦体制のもと、無関係だった人や地域などあり得ないように、戦後のいわゆる赤線は、戦中に積極的に再編されて、地域によってはむしろ拡充・拡大していった事実がありました。これを新聞記事などから丁寧に拾い上げる作業は、「労多くして功少なし」と見做されてきたのか、軽視されたままだった印象があります

この戦中史の解明を含めて、お三方の講演内容は、これまでの市町村史や郷土誌が軽視してきたものを丁寧に調査したもので、わずか一行であっても、これを推定とせずに、断定するためには、相当の労力を費やしたものと拝察します。改めて敬服する次第です。