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新店舗は店内撮影禁止にします。

カストリ書房は今年8月から新店舗に移転します。(場所の告知は今少しお時間を下さい)

移転に際して迷っている判断があります。来店者(後述する内容から敢えてこう書きます)による店内撮影の可否をどうするか?についてです。これまでは基本OKとしてきました。ただし一律ルール化せずに個別に判断したかったので、OK/NGについて敢えて店内に掲示せず、アナウンスも意図的に避けてきました。

ほとんどの場合、店内の撮影は一種の記念撮影であり、SNSが浸透した現代では、むしろこれを逆手に取って撮影を歓迎することが商売上の正解であることも承知しています。

ただし次のようなことがあります。「○○の本はありませんか?」というお訊ね。この○○には具体的な図書名が入ることはまずなく、かなり曖昧な言葉が入ります。

例えば「○○町にあった遊廓の雰囲気が分かるような本」。

「雰囲気」。これは自分も含めて、日常的に便利に使ってしまっていますが、自分が手前勝手にこしらえた定義であって、含まれる範囲は人それぞれです。街の空間構成なのか、建築的特徴なのか、民俗風俗なのか、娼妓と地域住民の関わりといった関係性なのか、あるいは別な何か──(身も蓋もありませんが、自身の疑問を整理できないからこそ「雰囲気」を使ってしまうのが答えだと思われます)

こうした場合、店主の私は、前後の文脈から「雰囲気なるもの」が何なのか類推しながら、これまで見聞き読みした知識を動員して、関連図書を提案しています。おすすめした本を手に取られて、ちょっとページを開き、お気に召さなかったのか本棚に戻されることも当然少なくありません。

これは弊店の品揃え力不足であったり、私の提案力不足など、当方の非力ゆえなので、残念とはいえ、今後一層努めてゆかねばならないこととして認識しています。ここまでは書店に限らず、どのような物の売買において似たり寄ったりのことは起き得るものです。

問題はここからです。本棚に戻すときタイトルをメモしたり、書影をスマホで写したりする人がいます。文章では信じがたいかも知れませんが、おそらくこれを今読んで下さっている皆さんが想像する以上の頻度です。「あとで近所の図書館に所蔵がないか調べてみよう」、同じく「Amazonマケプレで探してみよう」ということかもしれません。

こうした場面に出くわすと、目の少し瞼の上あたりが暗くなるというか、愕然とした気持ちになることを禁じ得ないのですが、この手の行為に及ぶ人物に一定の特徴がないことからすれば、おそらく自分も過去には書店で無自覚にこうした行為に及んでいたのかもしれません。場合によっては、今現在も別な業種の店では類似する行為に及んでしまっており、私が無自覚であるのは、先方の見えない優しさや気遣いが沢山あったからかもしれません。

話を戻すと、そもそもこうした行為による失った時間やお金といった機会損失が売上全体に占める割合は微々たるものです。さらに言えば、店外へ出た瞬間に記憶をメモするなど、もっと「賢く」できてしまいます。長い目で商売を続けていくのならば、一挙一動を監視・値踏みするようなことはせず、一喜一憂しないことが正解かも知れません。実際そう考えて、開業した当初は余程のことがない限り、見て見ぬ振りをしていました。注意したところで機会損失が0になるとも限らず、嫌な気持ちを残して次の仕事に支障が出ないように、というもっともらしい弁明まで考えていました。

しかし単純な経済合理性で判断して良いのか?という気持ちも高まってきました。書店業は、言い方は悪いですが、他人のふんどしで相撲を取らせて貰っている商売です。著者の燃えるような使命感や血の滲むような苦労がまずあります。そして問題意識を共有する編集者が、カタチに仕上げています。取材対象者の想いもまた忘れたくないものです(書店員は苦労がないと言いたいのではないので念の為)。それは本の価格とは無関係です。高い本ならば苦労が多い、安い本ならば反対が苦労が少ない、というものではありません。著者の中にある一個の思念が本となり、店頭に並ぶまでに様々な人たちの苦労があります。

こうした背景を考えるにつけ、先の行為を経済性云々のみで判断することは間違いであると気づきました。私の見て見ぬ振りは、著者たちの想いを踏みにじる行為に加担しているのではないか。

こう考えて、今は相手が大の大人であれば、「その行為は著者に【も】失礼ではありませんか?」といった私なりの言葉でお伝えするようになりました。が、相手が学生の時はやはり迷っています。結論的には、多くの場合、見逃す/見過ごしています。一般に懐事情が厳しい学生を経済活動に巻き込むことが常に正解とも思えません。しかし一方で、まだ学生だからこそ大人が諭すべきで、私は社会人・大人の務めを放棄してしまっているのではないか、という思いにも囚われます。「目の前のヒューマニズムを忘れて、人文科学を研究したところで何が意味があるのか」といった想いもあります。まだ結論を出すには至っていません。

もう少しだけ続きます。お付き合い下さい。

選書の段まで話を戻すと、オススメする図書(資料)は、当然のことながら今現在も商業出版されているものとは限りません。

各自治体が発行した市町村史や紀要であったり、地域の小さな出版社がかつて発行した絶版図書であったり、あるいは地域で無料配布されていたミニコミ誌であったり。こうした場合は、知っている範囲で所蔵する公共図書館もお伝えしたりもしています。疑問と完全に合致せずとも、おそらく何らかの知見をお持ちであろう研究者の本をお伝えして、参考文献欄を丁寧に辿っていくと良いのでは?といったアドバイスも、ときにはします。

この場合、商品が存在しない以上、当然購入対象がないので、買わない選択肢の妥当性が一気に上がります。結果、30分〜小一時間ほど話して、挙げた図書や資料名だけをメモり、そのまま何もお買い物をせずに帰られる人が、先の「在庫あり&買わない人」事例より格段に多くなります。

これはどう考えればいいのか──

先の事例と反対に、これはお客様からみた経済合理性ですが、であれば、こちらの対応として、商品在庫が無いことを理由に手掛かりを伝えないことを正解とはしたくないのです。

縷々書き連ねましたが、こうしたことを踏まえて、店内撮影禁止に踏み切る意志が固まりました。一律に店内撮影禁止のルールを敷けば、息苦しさが増すことは避け得ません。昔は良かった式の嘆息は、おそらく他の誰より私が吐き出しています。

加えて、前述した問題・課題の対策として、店内撮影禁止ルールですべて解決できるわけではありません。メモの問題は残ります。ただし本質はそこではないと考えます。対処療法的にルールを敷いていけば、店内がルールで埋め尽くされてしまう、そうしたことを恐れます。

情報を簡単にコピーできてしまう代表的なツールであるカメラ(スマホ)を禁止するマークを店内に掲示することでピリッと流れる緊張感が、店とお客様を経済合理性だけの関係性に陥らせてしまうことから救ってくれるのではないか、そうした見立てに基づく結論です。(記念撮影まで制限する意図はなく、屋外については今後も自由に撮影をして頂ければと思います)

移転のタイミングでルール化する意味は、移転先がこれまでよりも観光客などを含む客層が拡がり、偶発的な来店が増えることが予想されるため、良いタイミングであると判断しました。

とうに店内撮影禁止を徹底している書店さんからすれば「何を今さら」と笑われてしまうかもしれませんが、自分で考え、判断し、伝えていくことを放棄したくないので、ここに記しました。今後もよろしくお願いします。