紅子『色街探訪記 元吉原ソープ嬢が撮る「遊廓・赤線・吉原の女」』展を振り返って 〜個展の主役は誰か?〜
2023年4月29日(土)〜5月7日(日)のゴールデンウィーク期間中、カストリ書房併設ギャラリーで開催された、色街写真家・紅子さんの個展『色街探訪記 元吉原ソープ嬢が撮る「遊廓・赤線・吉原の女」』、連日盛況のまま幕を閉じました。来場した多くの観覧者様、そして紅子さんにお礼申し上げます。
会期中の7日間(月火定休)で入場者数は450人を超え、連日満員御礼でした。紅子さんの写真が持つ魅力はもちろんのこと、紅子さんのご活動やお人柄に集まった関心や共感の高さゆえと拝察します。また会場のキャパ不足ゆえ、たびたび順番待ちが発生してしまうも忍耐強くお待ち下さった観覧者様に改めてお礼申し上げます。
今回、紅子さんの個展をお手伝いする機会を頂戴できた喜びに加えて、弊店にとっての課題も浮き彫りになりました。今回は紅子さんの個展の振り返りを兼ねて、課題について考えてみます。
おしなべて言えば、弊店が展示者(作家)と観覧者の潤滑油の役割を果たせない場面についてです。次いで、もう少し具体的に書いてみます。
来場者の年齢層・性別で最も多く占めていたのが、60〜 70代の男性と拝察しました。紅子さんが吉原の元ソープ嬢を名乗ることから、若い日の遊蕩経験への旧懐が、引いては紅子さんとのシンパシーを生んでいるのではないかと勝手に想像しています。
このように性別や年齢を超えて、広く耳目を集める紅子さんの作品やお人柄が持つ魅力については冒頭述べたとおりですが、一方で、この層の男性の一部が観覧者としての立場を逸脱してしまう場面も散見されました。
具体的には、私的な目的で連絡先の交換を望む男性がいたり、作品とは無関係な雑談を続けて紅子さんを長時間独占しようとする男性がいました。なかなか会える機会がない作家と自分なりに関係を取り結ぼうとする行為を、一概に否定したくはありませんが、やはり逸脱としか呼べない印象は拭えませんでした。こうした事実に、主催者としての力量不足を痛感すると同時に、憤りも覚えました。
展示者が安心して展示できる事、これは当然ギャラリー側に求められるべき大切な役割の一つで、いわゆるギャラリーストーカーが問題視される今日では、紅子さんのようなお立場の展示者には、なおさら重要な役割かと思います。ギャラリー側ができる対策の一つに、何らかのルールの明示があります。ただしルールが多いほど暖かなムードは失われて息苦しくなり、反対に無秩序は観覧者やとりわけ展示者の不安や負担を増やしかねません。仕組み以上にバランスの見極めが大切であり、小さな課題の発見と解決の積み重ねを模索していく大切さを再認識した次第です。個展が縁で交友や仕事が生まれることも少なくなく、ルールで埋め尽くすのではなく、交流の「余白」もまた大切にしたい場面の一つです。弊店のような小さなギャラリーでは、近い距離感で作品と作家さんと関わり合えることを大切にしたいと思っています。
加えて前述の「憤り」を掘り下げてみたいと思います。こうした行動の背景には、紅子さんや以前の職業である性風俗従事者を、頭ごなしに「自分がコントロールできる弱い存在」と下に見做している意識があるのではないでしょうか? 先に挙げた言動を取る人物の語り口には、どこか自身を庇護者に重ねる姿が見え隠れました。確かに紅子さんは自身のYouTubeでも、弱さを併せ持つことを臆さずに語っていますが、弱さを見せることは勇気ある事であり、そもそも弱さを併せ持たない人はいません。まして、自身の分身である作品を世間に披露して、矢面に立つことを厭わない姿勢は勇気に他なりません。
当個展でも、連日在廊する紅子さんが疲れを表に出さず、短い時間であっても楽しく過ごせるよう終始笑顔で観覧者をもてなして下さいました。ファンにとっては至福の瞬間だったのではないでしょうか。が、個展の主役は他ならぬ展示者(作家)であり、観覧者との間には厳格な一線が引かれていることもまた忘れてはなるまいと思います。
そして、この一線こそが、作家を経済面といった現実でサポートするのみならず、作家が自身の怖れを払い除けて勇気を奮い立たせる創作力の源泉となる、大切な「作家とファン」という関係性を生んでいることもまた再確認したいと思います。
話がやや唐突ですが、90年代に「性の商品化」というテーマをめぐって盛んに議論が交わされました。その論調の一つに「一般の労働者も時間と労力を切り売りしているのだから、性風俗従事者が自身の性を切り売りして何が問題なのか?」と一面説得的な言説がありました。
しかし(現代の性風俗にすべてが当てはまらないことは言うまでもなく)、過去にあった性売買が抱えた大きな問題の一つは、商品化という資本主義・経済主義への行き過ぎた傾倒ではなく、「所有」が核心だと私は考えます。現代の一般労働者は確かに時間と労力を切り売りしており、雇用主の命令下にありますが、かといって誰かに隷属することも所有されることもありません。しかし過去の性売買では、親は娘を所有し、楼主は娼妓を所有し、為政者と社会がそれを許容していました。
今しがた「過去の性売買」と書きましたが、実は過去のものではなく、現代にも尾を引いている問題ではないか? 今回の件を通して、識者が論じた思弁ではなく、身近にそれを感じました。性風俗従事者(元従事者であろうとも)を「自由にコントロールできる弱い存在」であると手前勝手に見做したり、あるいは脈絡のない話題を際限なく続けても「自分を100%受け容れてくれる存在」だと甘え掛かる意識の背景には、性風俗従事者へ向けた蔑視を前景とした「所有」が現代にも巣くっているように思えてなりません。お為ごかしの〝庇護者〟を一皮めくれば、所有者の姿がそこにはあります。
縷々、当方の課題意識を書き募りましたが、紅子さんの作品性に惹かれた沢山のファンが集い(関西からお越しの方も。)、紅子さんを中心に囲む暖かい個展であったことも改めて強調したいと思います。加えて本稿で挙げた困難な課題提起は充実した作品や展示があればこそであり、作品を超えて考える機会を頂戴したことに感謝したいと思います。紅子さんの今後のますますの躍進を期待しています。
また弊店でも今回の経験を糧に、より展示者が安心して展示ができる環境づくりに努めていきたいと初心を新たにしました。
最後になりましたが、今回の個展期間中に吉原ソープ街で起きた痛ましい事件の犠牲者の冥福をお祈りします。事件を受けて、個展で見られた一部男性の言動は単なる「マナー違反」を超えた問題を抱えているのではないか、という想いが募りました。事件の概要は未詳ですが、どこか通底する想いで、本稿を書いてみました。