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取り扱い図書を増やすということ

移転に際して、クラウドファンディング実施中です。ご高覧の上、共感頂けますようでしたら、ご支援のほど、よろしくお願いします。

上記のクラファン本文でもご紹介しているとおり、新店舗開始後に拡充されるサービスには「遊廓カフエー&バー」「イベントスペース」、そして「取り扱い図書の拡充」がありますが、本稿では「取り扱い図書の拡充」について少し補足してみます。

2016年に吉原遊廓跡に開店と同時に遊廓専門書店を名乗ってきた私たちは、「専門とは何なのか?」について考え続けてきました。

遊廓に関する図書を取り揃えることは言うまでもありませんが、一方で、こうした専門性は細を穿っただけの衒学に陥りやすいことも痛感してきました。知的探求という美名のもと、歴史や、過去に生きた人々や、社会を掌で弄ぶことに、私たちカストリ書房は棹さしているのではないか。

カストリ書房の母体である株式会社カストリ出版が発行した図書を典拠として、今も人々が居住し、働いているかつての娼街(あるいは現行の娼街)を指して「激ヤバ」「恐怖」と紹介するサイトも存在する事実は、対岸の火事ではありません。実際、弊店とサイト執筆者とを勘違いして、元楼主の家族からクレームが入ったこともありました。誤解は解いて頂きましたが、弊店が加担したのかも知れないという思いは拭い切れません。

私は以下の記事で、こう書きました。

──共感や憐憫の情なくして、売春の歴史は扱えないのではないか。これを排して、知的ゲームとして弄ぶような言説に私は強い違和感がある。分かりやすい例で言えば、遊女数や娼家数などを羅列するだけのことを「客観性」と扱うならば、その「客観性」はむしろ遊女を始めとする当時を生きた人々の尊厳を、数字の中に埋没させることに棹をさし、歴史を伝える価値そのものを見失っているのではないか。

無論、科学性を否定する意図は毛頭ありません。数字といった定量化できる事実のみで構成される情報を知りたい、という動機もまた否定しません。ただし私(カストリ書房)は、そうした考えが、遊廓の歴史を後世に残すため資することは少なく、むしろヒューマニズムを排除した情報は差別偏見を再生産さえし得ると考えています。そのことは、ネット上で繰り返しマネて再生産される、露悪的で冷笑的なサイトを見れば明らかです。

他者の言葉になってしまいますが、「なぜ遊廓の歴史を学ぶのか? 伝えるのか?」といった問いに対して、これ以上ない答えと思るところの一文を紹介します。

時として「忘却」は悲しみや苦しみを内面化することによって精神の浄化に寄与することもあるが、それは過去の記憶が血肉化するということであり、抹消されることではない。
 SNS等に顕著な、絶えず「今」が更新され続ける状況を見るにつけ、現代ほど「過去」が顧みられず、「歴史」が軽視されている時代はないような気がしている。そこでは表面的な事象を浚って脊髄反射的な応答を繰り返しているに過ぎず、物事に対する多層(角)的な視点が決定的に欠如しているようだ。歴史の地層を掘り進め、現代がその分厚い層の上に辛くも成立していることに絶えず立ち返らなくてはならない。社会全体の規範や意識が全く異なる過去の時代から逆照射することで、初めて私たちは自分たちが生きる現代に対して批判的な視野を得、また希望的な未来を描くことができるのではないか。遊廓史を今に問う意義があるとすれば其処だ。

野中富弘『鹿沼町遊廓小史』

遊廓という過去を相対化して、多角的、多義的にみる。そのためには地続きとなる女性(ジェンダー)、民俗・風俗、建築、医療、軍事、差別偏見、地域史、メディア、芸術美術、産業などを広く取り揃えていくことの必須であると結論づけました。決して「取り扱いタイトル数○千冊」と誇示することではありません。それは昨今閉業が相次いでいる総合書店の再現でしかありません。

新店舗では目下、取り扱い図書の選定と取り寄せ作業中ですが、書架の数は以前の倍ほどを用意してあります。(プレオープン期間中は取り扱い図書が少ない場合がございます)