悩みからフィクションコンテンツが生まれる。

それは、君の問題。

わからないまま悩んでみる。
わかってて、あえて悩んでみる。

悩みから、妄想が生まれ、妄想がコンテンツになる。

私の悩みだけ、私の問題だけより、誰かの問題を解決したい。これは、コラムを書く原動力になっている。

誰かの問題を代わりに悩んでみる。

これは、誰かの立場や性格、生活や気持ちを知ることにつながり、誰かを主人公にした小説や詩を書く上で、必要なことになっている。

私の趣味的な悩みグセは、noteにきてから、コンテンツになり、それはお金につながってきたり、仕事になってきたりしている。

私の場合、悩みがプラスに働くようになった。

たまに、自分がつくるイマジネーションやフィクションにのまれて、自分を見失うんだけど、書く作業を続けることは、自分を取り戻したり、自分を保つことに作用している。

社会問題に関して、ニュースに関して、かわいそうの代わりに意見をいうことで、同調のしすぎを防いでいる。

もちろん、私の家族や友達といった身内に関しての問題であれば、かわいそうの同調からくる世話焼きはプラスに働くこともある。

しかし、私の体調や体力や時間は無限にあるわけではなく、限られてくる。

それに、同調をいくらしてみても、問題を解決出来るのは、問題を起こしている当人のみである。
同調をする側は、同調するだけで何もできない。

意見をいう、これをすることは、自分の身を守る手段でもあるのだ。

自分たちと遠い誰かを分けて考えてしまうのは、やっぱりかに座なんだな、私。

家族の世話を焼くことは、私の居場所を確保することは、ぜんぶ私が生きる原動力になっているし、私はなんだかんだいっても一人では生きていけない。

実は、私は、根本的に一人暮らしができない。
掃除しない、洗濯しないというより、たぶん献立が思い付かなくなってきて、食べなくなってくるんだ。

基本的に食い道楽でできているので、自分の食べたい何かのためにつくることもあるが、自分の食事よりも息子や夫の食べたい食事をつくる方がテンションあがる。舅や姑の好きな食べものやメニュー、バランスを考えて献立作りをする。

家族の人数が多くなれば、今日は夫好みの献立、明日は姑好みの献立、明後日は夫には我慢してもらって舅好みの献立、明明後日は息子好みの献立、その次は私好みの献立、と献立の予定がこれだけたつから逆に楽なのだ。

まぁ、夫のきまぐれさには手を焼かされるのだけれども………。

私は、感情的な人間だからこそ、つとめて客観的な視点を持とうとする。

とはいえ、客観そのものが誰かの主観であることもわかっている。

色々な主観をみつけて、色々な主観になりかわってみることで、小説が書けるってかんじがする。

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