今と未来について、思う。

言葉ばかり並べてみても仕方ないけど、言葉がないと伝わらない。

行動のすばらしさは、たしかにあるけど、言葉がないと、推測しかできないわけで。

言葉があったとしても、ほとんどの人は、言葉を使いこなしていないから、誤解ばかりなんだと思うし、そもそも理解できやしないのだろうし。

究極の対極にある価値観と出会って、それでも、受け入れるなんて、難しいよ。
だけど、認めることなら、できるんじゃないかな。
ただ、全ての価値観があることだけは、認める。
好きか嫌いかは、置いといて。

で、ほとんどの人は、無関心レベルで動くしかない。
出会ってみたとしても、無関心の範囲から、少し好きとか少し嫌いとか、アナログで動いていく。
めっちゃ関心示して、執着するなんて、そうそうないのだよね。

だけど、リアルでもネットでもそうだけど、めっちゃ好きすぎて関心強くなる、めっちゃ嫌いすぎて関心強くなる、っていう、両極端な関心度合いになることは、実は滅多にないのが、ほとんどの人なのではないかな。
それはそれで、ストレス少なくて、楽でいいよね。
だけど、それは、困って溺れる人を切ることと同義だったりもする。
困って溺れる人は、たいてい、アンチばかりとか口が悪くなったり、なのに、無反応でスルーとかが出来なくて、いわゆる、めっちゃ嫌いすぎて関心強くなる状態。

それでは、うざがられて、避けられるだけなのに。
情に溺れているんだけど、その感情に無自覚なんだよね。

無自覚な感情を自覚させる言葉が痛くて、逃げたりもする。
そんな人は、時がくるまで待つしかない。
そうやって、時がくるまで待てる人は、その人のことが好きすぎて関心がめっちゃ強くなるような人なわけで。
つまりは、縁が濃い人なわけで。

縁が濃い人って、ある程度は選べるけど、神様から出会いを用意されてるような気がする。

私のネット上での姿は、たくさんの人と交わっているし、ネットだけじゃなく、リアル世界でも、交わりはある。
だけど、深い仲になり、わたしが執着するようになる人って、ほんとうに数えるくらいなんだ。

執着する状態がストレスフルだから、苦しくて嫌だから逃げてしまいがちってのもあるけど、関心をもって人を見ようとしても、そんなたくさんの人のこと覚えていられないし、時間が足りないんだ。

だって、1日は24時間しかないし、1年は365日しかないし、私はいつか死ぬから。
だから、ずっとそばにいてほしいと、執着するような人の縁って、そんなに増やせないよね。

そのうち、なん枠かは、自分のパートナー枠、自分の子供枠なわけで、他の友人枠って、そんなにたくさんの人は用意しきれないとも思うの。

もちろん、来た人は、歓迎するけどね。

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