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ママ母ババ14~19/緑のドアの古民家


孫に願いを込めて

私は結婚し鹿嶋市に住む。
すでに結婚していた姉は東京
弟はオーストラリア
ワーキングホリデーで働いていた。

二世帯住宅は、2階に両親
1階に祖母だけになった。

気丈な祖母介護が必要になった。
姉も離婚した。
子供を育てながら、
近くのマンションに住む

母は、介護の人達と仲良くなり、
孫を可愛がってはいたけど、
明るかった家も先の見えない
暗闇にいる
この先どうなるのだろうか・・・

私の次女を出産する事が
希望となっていた。
そんな事もあり、
きっと美しい春は来る
という願いを込めて”美春”と
名付けた。

私は、産後、実家ではなく
姉の家にお世話になった。

私が、実家から帰る時、
いつも笑いながら見送ってくれる母が、
”面倒をみれなくてごめんね”
と言って涙ぐんだのが
忘れられない。
悔しかった”のだろうと思うと
今も心が痛む。

まもなく、祖母は自宅で
老衰により亡くなる

眠る様に亡くなっていった
聞いた。
94歳。大往生だと思う。

脚が悪くて、あまり出かける事も
出来なかったおばあちゃん。
一緒に旅行しようね”という気持ちを
込めて、形見の指輪をしてお出かけのする
のが私の習慣になった。

祖母が亡くなり、両親は2階から
1階に引越し、
姉が2階に同居。

家も耐震をかねた改築をした。
リフォーム後の玄関ドアは
緑が目立つ。
かなり年数の経った家は、
まるで古民家。

緑のドアの古民家が、
現在の住居となる。

大人になると分かる事

母が絶対的に正しいと信じていた
幼少時代。

スナック菓子を敵視していた母が
カールだけはくれた。
”ママの魔法だよ。後ろ向いていて”と
呪文を唱えてながら、
私と姉に数個のカールを手に乗せる。


私は本当に母が呪文で出したと
と思っていた。

大人になると分かる。
大人だからって、
何でも知っている訳ではない。
すべてが正しい訳でもない。

母は、病弱だった私に
カルシウムを買って飲ませた。
お家一軒建てられる程、お金を使った
という。
家を建てて思う。それはない。

母は、父を大げさな人だと言う。
”会社帰りにこんな大きな蛾がいた”
と言ってたよ。と、
両手を広げた。
まるでモスラだ。
今思う。更に盛ったのは母だ。

母は、キリスト教の勉強会に
通っていた時期があった。
その後、
どの神様も良い事を示す”という事が
分かった。と言って通わなくなった。
妙に説得力があった。

母と同じ年齢になると思う。
色々なシーンを思い浮かべては
あの時、
何を考えていたのだろう。

辛かっただろうか。
悲しかったのだろうか。
楽しかっただろうか。

でも、いつも大口を開けて
笑っている顏が思い浮かぶ。

だから、私達もなんとなく幸せな
気分でいられた。
感謝が溢れ出るな。
何でも知っている訳ではない。
すべてが正しい訳でもない。

外と繋がる!!

父と母も、
時間に余裕が出来、
外食ランチを始めた。
暫くすると、
我が家が一番!となり外食は終了。

母は、習い事も始めた。

多少の絵心のあった母は、
絵の教室へ。
しかし、毎回、
出された課題+αを描いてしまうらしい。
”見たものだけ描きましょう”という先生。

その日の課題は、彼岸花
母の本日の+αは、阿修羅像
先生は怒り、母は絵の教室を辞めた。
母は、自由すぎた

先生の描く素敵な”アート書道
に憧れ書道教室へ。
しかし、
アート書道はまだ早い”と先生。
母は書道教室を辞めた。
母は、待ちきれなかった

同時に、合唱倶楽部にも通いだした。
家の中で、高らかに歌い、
発表会では、看板を描いた
舞台上では一人だけ
スカートを持ち上げ、
お姫様風にご挨拶

父の具合が悪くなりやむなく辞めた。
と聞いた。

トレッキングツアーにも
1人で参加し始めた。
山を歩き、野山の絵を描き、
楽しんでいた。

これも次第に行けなくなった。

少しの間だったかもしれないけど、
母が自分の為に時間を使う事が
出来て良かった。

私は、実家と遠く離れている。
大人になり、
お互いを
案じあう関係になった。

お洒落な仕立て屋さん

子供が成長し、
帰省するのは年に1回程度になった。

緑の玄関の古民家風の実家
トイレのスリッパには野の花が描かれ
のれんには、スズメ
姪の部屋の入り口にイルカ
白い付近には
シャガールの模倣絵

家の中のいたる所に
母のお絵描きがある
庭の花も飾ってある

同居している姉・姪・母
同じ様な部屋着を着ている
”すごく楽なのよ”という
母愛用の洋裁本”スタイルブック”
から作るワンピース
スカート、パジャマ

母の工房となった
出窓付きの廊下では、

大小様々なバック等の小物
体形に合わせて
ワンピース、エプロンなどの洋服類
が制作される
母の洋服や下着も
”母用”に補正される

終活を兼ねた断捨離で
現在、着物を洋服にしたて直し
いるとの事。

外や家で着る
羽織物として生まれ変わっている

ちょっと奇妙で
ちょっとワクワク
ちょっとニヤける

実家に帰ったぁ~って気持ちになる

母の独特の補正洋服は、
体形が変わりつつある友人に好評で、
私もやりたい!!となり、
”自分の洋服を自分で治そう!!”
ワンコイン洋裁教室を実施していた。

また、古い洋服のリフォームをお願いされ、
仕立て屋さんにも
なっていたとか・・・

のれんに絵を描いてとの依頼も
あったとか・・・

しかし、昨年、母は82歳。
”他の人からの依頼の仕立ては
お断りする事にした”

私の幼少時代から
続いた母の様々な”お店”。
とうとう
完全店じまいとなった様だ。

名誉の負傷

父は母より4歳年上。
2024年87歳となる。
現在は、外では車いすで生活。

数年前の父が車いすになる前の話。
久しぶりに帰省すると、
父は手首に包帯を巻いていた。
”どうしたの?”という私の問いに
”これは、名誉の負傷だよ”と父。

勢いよく母が話し始めた。

当時、実家の向かいには老夫婦が住んでいた。
ご主人は、数年前から寝たきり

とある日、奥さんが、我が家にのりこんできた。
母に、”この泥棒ネコ!”と罵声を浴びせる。
知らぬ間に家に上がり込んでどういうつもり!”と。

お向かいさんに上がり込む事はない
”泥棒ネコ”のはずもない
”何を言っているの?そんな訳ないでしょう!”
母も応戦。

そこへ、お向かいさんの娘さん登場
”申し訳ないです。母は時々幻覚をみるのです”と。
そういうことか。母も納得。
一件落着となる筈だった・・・

ところが、
”何を言っているの!この子は!”と
娘さんの髪を掴んで外に引っ張りだしたという。

母曰く、
お父さんの”男”が目覚めたのよ”
ヨボヨボとしながら、
”やめなさい!”と仲裁に入る。

母曰く、
”老女なのに、物凄い力なのよ!”
父の手に嚙みついたらしい。

母曰く、
”もう、思いっきり叫んだわよ!”
助けてぇ~”ってね。
そこで、ご近所さんが仲裁し、
ようやく一件落着となったらしい。

娘さんが、後日謝罪に。
老人ホームに入れず、老々介護をしている
時々、様子を見にくるけれど、
現在は老夫婦での生活。

切ないわねぇ”と母。
お向かいさんの出来事は、他人事ではない

そして、
手首の怪我位で良かった。
転倒して骨でも折ったら大変だったな。

しかし、
男気を見せた父”に、
苦笑しながらも母は、
多少の満足感がある様に見えた。

親子よりも長い間、両親は
苦楽を共に過ごした。

父は、不自由な範囲が広くなる一方だ。
それを支える母も、若くはない

これから起こる出来事で
この様な事は
今の両親には難しいかもしれない。

しかし、共に”面白いな”・”楽しいな”
と思える出来事。
一つでも二つでも
これからもあれば良い。
心からそう思う。

母から学んだ事

「相手の立場になって考えてみなさい」
「遠くから自分を見てごらん」
「健康であれば何でも出来る」

私が幼い頃から言われている言葉。
母は、自分自身に言っていたのかもしれない。

私も人生の後半になり
自分の過去を振り返れる歳になった
今の所、私の人生は波乱万丈ではない
順風満帆かと言えばそうでもない

少しは、さざ波も訪れた
そのさざ波が大波にならなかったのは、
一重に母の言葉があったから

相手の立場になって考えてみると
怒りが収まる事が多くあった
遠くから自分を見る事で
達観する事が出来た

健康が人生の源だというの
も歳を重ねる毎に感じる

”私の母にはドラマがある”と思うのは、
長く時間を過ごし、
色々な面を見てきただからだと思う。

そう考えると、人と長く裏表なく付き合うと
誰もが個性的でドラマティックである。
と思っている。

ドラマの大きさは関係ない。

高校生の頃、
清少納言の”枕草子”が大好きだった。
中でも”うつくしきもの”の一文

”ふたつ、みつばかりなる児ちごの、急いそぎて這はひ来くる道みちに、いと小ちいさき塵ちりのありけるを、目めざとく見みつけて、いとをかしげなる指およびにとらへて、大人おとなごとに見みせたる、いとうつくし。”

私は、感銘を受けた。
時代を超えて目に浮かぶ情景。
言葉は、時を超えるのだと思った。
人間は、ずっと変わらない部分があるのだとも
思った。

私が祖母の書きかけの日記を見て、
興味を持った様に、

私の子供・孫・ひ孫・・・
誰かに続く母の物語になればよいな。
と思う。

母の人生にもまだ
続きがあると思うけど、
今回はこれまで。

おわり


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