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私は、私が持つ「男性性」を、もっとわかりたい

「現代思想02 『男性学』の現在—〈男〉というジェンダーのゆくえ—」
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3262
を、どうか買って読んでください。

言いたい事はこれにつきます。
新刊です。書店の雑誌コーナー、文芸雑誌のあたりにあると思います。

読んでいて、身体から憑き物が落ちていくようだった。
これまで私は、私なりに、”女性としての生きづらさ”に対して向き合ってきたつもりだ。文章を書いたり、本を読んだり、人と話したり。共通の問題意識で人と繋がれたりもした。
特に文章に関しては、「私は苦しいんだ」と書くだけでは私も誰も報われないという思いが強かった。だから、私の苦しさをなんとか社会構造への批判と結びつけようとしてきた。私の苦しさは私の責任ではなく、私を取り巻く社会のせいでもある。そう主張することで、自己責任論から解放されたいと思った。個人的なことは政治的なこと。運動の基本である。内省に固執した個人語りでもなく、物見高な社会批判でもない形で、私が女であることの苦しさを言葉にしたかった。


しかし、それを行うことは即ち、「私は女である」という前提に、強くこだわることでもある。「私が苦しい理由は、この社会の女性差別の歴史・構造にある」という主張は、当然「私」=「女」という前提に依拠している。私はそれを土台に物を書き、人と話すたびに、心がひりひりと痛むのを感じていた。それでも、その感覚を無視してきたのである。何かを主張するときの、理論的破綻を免れるために。

小さい頃、男になりたかった。
それは、父や兄への憧れや、家庭に尽くす母への複雑な感情などの諸々な事情で形成されたのだろうが、それがミソジニー(女性蔑視)につながるのは当然で、今でも女らしさに対する忌避が、自分の中に根強く存在していることは強く自覚している。しかし、「女であることを受け入れよう」「女らしさを肯定しよう」とかいう言説には正直寒気がするし、だからといえミソジニーという言葉で自分の立場が正しく言い換えられるとも思えない。『現代思想』を読んで少しほぐれたのは、まさにこの自分の中にある、「男になりたい」という欲求をどう処理していいかわからない感覚である。

ぼくは、近代社会の男性性を「優越指向、所有指向、権力指向」の三点から分析することを手難してきた。つまり、他者との競争に勝利したい、他者より優越したいという優越指向、他者より多くを所有しそれを管理し見せびらかしたいという所有指向、さらに他者に自分の意思を押し付けたいという権力指向である。 『現代思想02』伊藤公雄「男性学・男性性研究=Men&Masculinities Studies」p.11

念のため付け加えておくと、伊藤は、決して「優越指向、所有指向、権力指向」を持っているのが「男」だと言っているわけではない。近代社会自体が、男女の社会的区別を設け、男性=「公的」領域=生産労働=有償労働、そして女性=「私的」領域=再生産労働=無償労働というジェンダー構造に依存することで発展を遂げてきた。男性が担わされてきた生産労働や有償労働が、「優越指向、所有指向、権力指向」を満たせることをウリにしていることは、新卒や就活サイトを見れば明白である。今よりもっと成長しよう、もっと豊かになろう。即ち、「優越指向、所有指向、権力指向」を満たすことをミッションに、生産労働や有償労働を担わされてきた(いる)のが、「男」だったのだ。

私は、伊藤の文章を読み、やっと、少しだけ、恐る恐る認めようと思った。「男」になりたかった私が欲したのは、権力であり、優越感であり、所有欲を満たすことだった。母のようなパートタイマーではなく、正社員になり自立した生活を送りたいと願う時、私は、自分の人生を自分でコントロールし、あるいは自らのパートナーをも自分の良い処遇にする権力を欲し、母や非正規に陥らざるを得ない全ての人への優越感を欲し、お金や物、人からの称賛などの所有を欲した。自分の根っこに縛り付き、無意識ゆえになかなか拭い去れない、この三つの欲求。しかしそれをなんとか形にしようとすると途端に、社会の現実が立ちふさがる。国も企業も、社会を動かすなにもかもが、「人」ではなく「男」に動かされていることを知るのである。「女」である私は、その現実と矛盾し、欲求の満たされなさで、のたうちまわっていた。私が仕事選びや人生選択で苦労するのは、男女共に働きやすい環境が整備されていない「社会」のせいである。もちろん。「近代社会における女の生きづらさ」を語る私は、淡々と語り、自らを自己責任から解放しようとするだろう。しかし、そこで苦労する私もまた、そこで自分を勇気づける私もまた、「優越指向、所有指向、権力指向」を駆り立てる社会の精神の一部を根本から担ってしまっていたのだという事実。「女としての生きづらさ」ばかりを見ようとする私は、その事実を、見ないようにしていた。この社会の男女不平等の潤滑油になっている、「男性性」を自らも内包しているということを。

私の「男になりたい」という欲求を、ミソジニーという一単語に回収した時、おそらく、自らの男性性を問う手つきは、鈍ってしまうだろう。だからこそ、それを「男性性」と名付け、認識したい。とても重要で、必要なことだと思う。

フェミニズムが女性だけの学問や運動ではないように、おそらく、男性学も、男性だけのものではない。この『現代思想02』が、「男性性」について問うことが、フェミニズムに触れつつもそこで迷っている私の袋小路を開けてくれると思った。

ここに書いてあることは、もっと美しい言葉で、誰かが語っているのだろうな。でも、私は、私の言葉で、このことに気づけた20代で良かった。

※かなり近い関係の人が本書に関わっています。そういう意味でも、買ってください。

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