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「破裂」に生かしてもらうこともある

熱湯を入れたマグカップが今にも弾けて割れだすような気がしてしまう。
ルピシアで買った「黒文字和生姜茶」を入れた、ノンタンのイラストが書かれた白いマグカップが突如として。まさに今湯気が立つそれは実は音もなくミシミシと体積を膨れ上がらせている最中で、手を触れるやいなやそれは一瞬で弾けて粉々になってしまう。破片のひとつやふたつが手に刺さる。今の私はそれを知らないだけ。

そういう妄想が止まらない。と言うと、その殺伐とした状況ゆえに「大丈夫?精神的にしんどいの?」と思われてしまいそうだが、まあ決してしんどくないとは言わないものの、こういった「今、破裂する2秒前」的な妄想は、これまでの人生で断続的に私の視野にねじ込まれてはきていた。

職場で、暴力の被害を受けた「女性」が抱えるトラウマについて勉強することがあって、そこにはよく「今自分が生きているこの世界が安全でないという感覚」というものが言及されている。「女性」に限らない。傷つきを抱え、それが丁寧に癒やされない時、誰もがそういう感覚を持ちえてしまう。一見、私が断続的に持ち続けている「今、破裂する2秒前」的な感覚もこれに似ているような気がして、安易に重ねるべきではないと強く思いつつも、体験しようとしている感覚は、少し似ているのかもしれないと思う。こうして当たり前の顔して置かれるマグカップも割れないとはいえないという感覚。そしてそれが私を脅かすのだという無根拠な確信。だけど私は、「今、破裂する2秒前」を想像すると、安心する。積極的に生きている気がする。

その感覚は、「マグカップ」にも及べば当然「世界」にも及ぶ。私のこれまでの雑誌づくりもとい活動的なサークルへの加入や無鉄砲な告白、突然の面接から突然の無職まで、そのどれもが、世界戦争の勃発や、急な車のUターンによる事故や、突然の強盗などのあらゆる「破裂」と「破滅」への2秒前的感覚の予感によって、少なからず駆動されていると言わずにはおれない。「今、破裂する2秒前」によって、生きている感覚と危機感を身体にたぎらせ、残された秒数の少なさを先取りするように、積極的な選択を重ねてきたのである。

私はいつか、特定の他人としっかり安心した、お互いの生活を侵し合うような日々を送りたいと想像していて、それは訪れそうでいてさぞ幸福らしくはあるものの、じっとりと不安である。それは、その他人に対して、の問題では一切なく、あくまで私の、この即時的な危機感というものが、誰かとの安全な生活の中のどこに居座ろうとするのか予想できないからだ。その感覚を放棄することは、私が積極的に生きるための一つのピースを捨てることである。しかし、それまでその居場所たりえていた私の生活のある場所は、人と生活を分かち合うために使うことになるだろう。
この感覚はどこにいくのだろうか。音もなくうっすらと消えていくことだけは避けたい。

「安心安全な生活」をうまく遂行できず、夜中に小さく泣いたり叫んだり、落ち着いていられないことを責める気持ちもわかるしそうなる自分も容易に想像できるのだけど、それを責める必要なんてまったくないはずだ。不安定であることに堂々と居直りながら、存分に自分という存在を遂行することはできるし、意外とできてしまうし、それが生活を少なくとも止めずに動かしていくなにかになっていることを知っている。そういう意味で、「今、破裂する2秒前」の感覚を捨てることは論外であり、むしろその感覚を持ち得ている自分を「恥じている」自分すらも利用して、なんとか生きていくことはできないものだろうか。

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