生活の批評誌、つくりはじめの話

文フリ東京が終わった。

今回は様々な事情から基本ワンオペだったので、あまりブースを周ることができなかった。というかいつもそうだ。作り手として、どんな人が買ってくれるのかとても気になり、ついついブースに居ついてしまう。
だから今回も、事前にtwitterなどで「これは買いだな」とチェックしていた作品を、友達が店番してくれているあいだに、ピンポイントで購入、風のように去る、を繰り返した。気が焦っていると、好奇心は鈍る。「おもしろそう」と感じること、ブースにふらりと立ち寄ることすらままならない。本当は市場調査をしたほうがいいよなと思いつつ出店者としてしか文フリに参加したことのない怠惰な私は、遊歩する文フリの楽しみを知らない。

だから、友人や知人以外で当ブースに足を運んでくれる人が、どうしてここにたどりついたのか、じつはあまり実感としてわからない。
聞いてみると、「twitterを見て」という人もいれば、「以前(委託販売させていただいている)書店で買って」という方もいた(ありがとうございます!)。多いのは、「見本誌ブースで見て」という方。文フリには、各ブースの作品の見本が一室に集められた見本誌ブースというものがある。ブースで売り子さんを前に吟味することが憚られる人向けに作られた、とても”わかってる”システムだ。そこで判断していただいた人は、購入も素早い。話す隙なく、気持ちの良いリズムで買って去ってゆく。そうでない人、たまたま通りすがりの人などは、目の前でじいっと本誌を見つめ、気がづけばおしゃべりが弾んだりする。

来店者の方とおしゃべりしている中で、いろいろなことを聞かれる。
京都の文フリに出たときは「生活の批評ってなに?」というコンセプトに関する質問が多くて、毎回大演説とオルグをかましていたのだが、東京文フリは、制作の経緯や方法、頻度など、制作のシステムや形式に関する質問が多かった。この違いはかなりはっきりと出ていた。

説明のためにあらためて振りかえり、語ってみたことで、「どうやって批評誌をつくっているか」を、自分のために書き残したくなった。毎号制作の意図も方法も試行錯誤しているので、「生活の批評誌」の作り方と、「生活の批評誌no.3」の作り方、その二つを語る事は同じではない。だから今回は、「生活の批評誌」をどのように始めたのか、書いてみたい。

つくりはじめの話
2016年4月、大学学部を過ごした静岡を離れ、大学院進学のために大阪に移住した。もっと研究がしたかった、というのが主な理由だが、このままで大学生活は終われない、もっと私がコミットできるものがあるはずだという謎の確信をふつふつと抱えていた。「なんか面白いものはいねがー」と心の中で叫びながら、勉強し、受験し、合格し、移住した。

選んだのは、都会でありつつ、インディペンデントな活動が多そうだ、と見込んでいた関西圏。その予測は見事当たる。私が移住した当時は、シェアハウスによる居場所づくり、いわば「住み開き」全盛期だったように思う。社会の中で排除されがちな、いわゆる”生きづらい”人たちが心地よく居られるコミュニティづくり。SEALDsの同世代であり、静岡でもそれに通じる(内容は安保ではないが)活動をしていた私は、社会と暮らしを繋ぐ取り組み、これは面白いと納得し、足しげく通うようになる。

自分で作って、自分で売っていい
私が足を運んでいたシェアハウスは、そこに住む人や集う人で文芸誌のようなものを発行していた。それに私は2度寄稿という形で参加した。
文フリを知ったのも、その文芸誌の編集長に代わって売り子を務めたのがきっかけだ。
ブースの前を行きかう人。その中の一人が、ぱらぱらと冊子をめくり、「これください」と言って500円差し出した。その瞬間の衝撃をはっきりと覚えている。

「自分で作っていいし、それを自分で売っていい」、のか。
自分で作り、それに対してお金をもらう。単純なように見えて、知らず知らずのうちに、タブー視してしまいがちなこの事実を、例外なく私も、禁忌のように感じていたのだ。どうやら、それは、タブーじゃないようだ。いわば自分で作って自分で売る人がごったがえす文フリの光景は、大げさに言えば、自分の常識を覆えした。それが「店番の代打」という形で、周りの力学によって与えられたことは、幸運だったと思う。

さて次号にも書きたいなーと思っていた矢先、文芸誌の発行が急遽取りやめになる。しかし、文フリの出店申し込みは済ませてある。何か出さねばならん。そのような事情を知った私は、「自分で作って、自分で売ってみたい」と思った。自分が作ったものに、誰かからお金をもらう、ということの、スリリングさを身をもって体験したかった。

シェアハウスの発起人の賛同と協力を得ることができ、シェアハウスの名前が掲げられたブースで、なぜか私が生活の批評誌を売る、という奇妙な構図が成立したのが、2017年9月の大阪文フリなのであった。

創刊号を作ったときのしんどさは別の稿にしたいが、そのしんどさが吹っ飛ぶくらい、めちゃくちゃに楽しかった。予想外に売れたこともそうだが、周りを見回せば、「批評」という自分がそれまでこだわっていたテーマを、同様に考え抜こうとしているひとがいた。私が考えたいと思っていることが、「売る」という形で、来場者と、そして出店者の何人かと、確かに接続したのである。

あと大学生活も一年半、その後どうするのかまったく見えていない私だったが、作るということ、誰かに作って(書いて)もらうということ、そして売るということ、この三つのスリリングな関係の中でもがくことを、自分の人生の大事な一つの取り組みにしよう、と思った。”わたしの戦場”を見つけた喜びは、深かった。


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