じっと肌を見る


人生26年目にしてはじめて、肌荒れというものに向き合っている。


鏡をじっとみつめては、肌の状況を解釈する。洗顔で優しく洗い、ぬるま湯をふわりとかけて洗い流す。化粧水と美容液を手で温めて塗り、乳液でふたをする。早生ミカンとカボチャをほおばり、ビタミン補給。翌朝の変化を観察する。

もともと、スキンケアや化粧品に対して、まったく興味を持っていなかった。朝のメイクは約5分、3ステップ。夜は夜で化粧水をパッパと塗る程度で、大学入学時に買ったマスカラを使い切るまで2年かかるほどの手の抜きようだった。

しかし、それは化粧や美容に興味がないのではなく、単に、自分の顔をみるのがおっくうだったからだ。
思春期以降なんとなく自分を直視せず目を背けてきたのがそのまま大人になったという感じ。見ないと、知れない。知れないと、ケアできない。自分に何が必要なのかもわからない。メイクとは「もっとこうなりたい」という理想がないと成り立たないのに、理想以前に現実が見えていないのだ。
私の鏡は、比喩ではなく本当に、いつも汚れて曇っている。

そんな私にも時折、「めちゃくちゃにきれいになりたい夕方」が訪れる。
それは一種の焦燥感のようなもの。一刻も早く私をきれいにしてくれるものがないと今すぐ死んでしまう。そんな焦りで頭がいっぱいになって、ドラッグストアに走る。よさそうなアイシャドー、化粧水、なんだかわからないフレグランスのようなものを買い込んでは、灰色のビニールの袋を手に提げて、やっと息をつく。

家に帰って、いの一番に袋から買った美容用品を取り出す。明日の朝使えばいいのだろうが、さっそく試したい。試さなければ死んでしまう。乱暴に包装を破る。しかし、それを使うためにはまず、自分の顔をよく見なければならない。途端にぞっと気持ちが重くなる。
思い切って鏡の曇りをふき取る。がらっと、自分の毛穴、鼻の頭のニキビ、頬の横にある吹き出物の跡が現れる。ああ、やっぱり見るんじゃなかった。いやそれでもと、買いたてのマスカラを目に引き伸ばしてみる。化粧水を肌にはたいてみる。変わったか、と鏡をのぞく。何が違うのかあまりよくわからない。3200円は無駄だったか。でも、一歩前に進めたという気がしてくる。少なくとも、今、私は後退していない。

そんな品が、これまでにいくつもあるのだ。
しかし、化粧・メイクの基礎体力が低い私は、結局、どう使いこめばよいのかわからず、使いかけのまま、引き出しの中でほこりにまみれる。
3日もたてばまた5分間のスリーステップに戻ってしまい、希望の光に見えたはずのあのマスカラ、化粧水は、ただの今月の雑費に変わる。

泊まりに来た友達が私の傍らで行っている、入念なスキンケア。それは私が知らない彼女の毎日の中で、淡々と、きわめて愚直に行われているのだろう。一方私のスキンケアへの情熱は、あちこちに散らばるピンボールがたまたまその穴に入ったときにしか起こらない、ただの偶然の産物だ。一瞬だけ燃え上がり、そうして、すぐに忘れてしまう。自分の顔のことなんて、本当にすぐにどうでもよくなってしまうのだ。

冒頭にも書いたように、今私は、自分の肌荒れに向き合おうとしている。
そのきっかけとなったのは、ここ数年来の友人が私にいった、私の言動に対する注意だった。私がある点で丁寧さを欠落させ、他人に対して自暴自棄な発言をして煙に巻く傾向にあるということを指摘してくれたのだった。
思えば私は、背負ってもない借金を返すように急き立てられ、息つく暇なく走りぬける癖がある。その時私が振り払い見ないようにしているのが、まさに自分自身のことだった。この世界に私がどんな様相で存在しているのかを把握することを避け続けている。平たく言えば、客観視できてない。その象徴が、自分の肌に対する無関心であり、肌荒れに対する無視だった。
自分に対する無配慮が、他人に対する無配慮に通じているということを明らかにしてくれたのが彼女の批判だった。彼女は肌をケアしろといったわけではないし他に気を付けるべき部分はあるのだが、まず私は、物理的に、私を見て、知る必要がある。思えば、私は人がメイクを変えたことはおろか、メイクをしているのかしていないのかすらも気付くことができないため、それで時々人を不機嫌にさせる。おそらくよく自分を見れていないから、他人のことも見れていないのだろう。

ああ、これはまずいよなあと、ひきだしを開ける。これまでに何度も訪れた「めちゃくちゃにきれいになりたい夕方」によって集められた数々の品のほこりを丁寧にふき取った。一瞬で武器はそろった。ぐっと息をこらえて、鏡を前に、顔面に向き合う。じっと見つめる。どこに今吹き出物があるのか。ニキビ跡はどこにあるのか。眉毛はどうだ、毛穴はどうだ。ひとつずつ、丁寧に、把握していく。最初はぐっとこらえないと耐えきれなかったのに、だんだんと、不思議な安心感が及んでくる。自分の顔の状態を、自分が把握することへの、このうえない安心感。自分が見えなくなって不透明になって他人を含む視界がぐらつくような不安感が、少しだけ軽くなった。

私と肌の、きわめて、穏やかな関係はいつまで続くのかわからない。だが、今、肌荒れと向き合う私は、めちゃくちゃにきれいになりたいという動機を持っていない。とにかく、吹き出物の一つから、自分を確かに把握したい、私ではない誰かのこともしっかり丁寧に見たいのだ。まるで当然のこと、でもずっとさぼってきたことをしているだけだと思うと、この筋トレは、もうしばらく続けられそうな気がする。



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