見出し画像

感想の練習2:『あちこちオードリー』等

「あちこちオードリー」(2023年6月13日放送回)にネプチューンの堀内健、ホリケンが出るという。私は一週間そのことを楽しみにしていた。

中学3年生の頃、ホリケンのファンになった。きっかけは「リンカーン」の企画「パイレーツ・オブ・ギャビアン・呪われた9人の海賊達」だったろうか。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のパロディの設定で、ホリケン率いるギャグ芸人が次々にギャグを披露する企画。場の中心にたたずみ、へらへらと、手足をけだるくたるませながら、意味不明なことを叫ぶその姿が、かっこよくてたまらなかった。
ホリケンに夢中の青春を過ごし、ホリケンの結婚に絶望し、大学に進学し、興味の関心が拡散する中で彼に寄せる関心の濃度は薄まったものの、世話になった元カレみたいな感じで、彼が今どうやって生きているのかは興味の関心であり続けた。

例の「あちこちオードリー」は、ギャルタレントのゆうちゃみとのWゲスト。特に二人はプライベートで仲がいいわけでも、仕事での縁があるわけでもないという。「なぜこの二人が?」というブッキングの突拍子もなさ自体をお楽しみくださいといった具合だ。二人が暖簾の奥から登場し、「トークのイメージがない芸人&売れっ子ギャル」として紹介されている。若林がのっけから「トーク番組のイメージないですよね」「トークできます?!」などとホリケンをいじりはじめる。

この時点で嫌な予感ははじまっていた。
意味不明なギャグと奇行を繰り返すディスコミュニケーションな存在としてのホリケン。そんな見覚えのあるイメージをこれでもかと強調したうえで、これから始まるトークの場の希少性が高められていく。まだ、こんなことをしないと、ホリケンは普通にタレントができないのか。さらにそういった希少性を高めた上でもなお、特に縁のないゆうちゃみとかけあわせでもしないと、間が持たないかもしれないという見立てをされているということなのだろうか。

若林からの「ホリケンさんって普段何しているんですか?(絶対日常生活でも変なことしてるんでしょ)」という問いに「いや全然普通だから」と答え、至ってフツーの暮らしを語り、「絶対嘘だ」と若林に笑われ、からかわれている。奇人変人と買いかぶられ、それをひたすらホリケンが否定していく時間が続く。

”テレビで奇妙な行動を繰り返すホリケンも、実はふつうに喋れる。私生活は変じゃない、実はいたって真面目”ーーそういうパターンのネタが繰り返されていく。十分ネタとして成立していると思う。でも、なぜか、その様子を安心して見れないのだった。「普通だから」と答えて、若林から「そんなん絶対うそでしょー!」とからかわれるホリケンは、なんだか、本当に戸惑っているようにもみえてしまうのだ。心から、「違うのに」って顔しているように見えるのだ。

「ボクらの時代」(2023年3月5日放送回)で、出川哲郎と今田耕史とホリケンの対談回を見たことを思い出した。
ホリケンは、出川と今田を「二人はすごくうまくやっている」「セルフプロデュースできている」などと褒めちぎり、それと対比する形で、「自分なんて」と何度も何度も自己卑下していた。それがあまりに続くので、出川が「いやそんなんいってもケンボーイ(ホリケン)だって」と褒め始めるものの、そこで披露されるのは結局「実は真面目」エピソードの類でしかなく、それにいたってもホリケンは「そんなことないんだよ」とせっかくのフォローを台無しにしていた。

彼の反射的かつ執拗な自己批判。これは一体。せっかくネタとして成立しているのに、どうして彼はこんなにも戸惑った、居心地の悪い顔をしているのだろう。もしかして彼は、「実は〇〇」という語られ方の裏側にある、自分にこびりつく偏見とイメージを、本当に、唾棄したいと思っているのではないか。自身の芸風を否定するとき彼はきまって年齢を口にする。「それで持つのは若いうちだけ」ーー奇妙な行動を笑いにできる時期はすぎ、的確なトークと実力が期待される年齢が訪れていることを敏感に察するからこそ、自身の足場の弱さに気づく。
それでも今は、ひとまず今は、世間のイメージに対する「裏切り」を取り急ぎネタとして消費し、頼ることで、まだ見ぬ番組に出て、笑いを作っていくしかない。脱却したいと願えば願うほど、まさしく脱却したいものにすがるしかないという、極めて矛盾した状況に、彼はいるように見える。

「ボクらの時代」だったか、もしくは「有田哲平の引退TV」だったかどちらか忘れたが、ホリケン自身が「今企画会議でネプチューンを名前に出すディレクターなどいないだろう」と、痛々しいほどするどい自己分析をしていたことがあった。ここまで的確すぎる自己分析で周囲を困らせる(ベテラン)芸人はそうそういないのではと思うから、やっぱり彼はトリックスターだなと思うわけだが、これがまた、絶妙に笑えないのだった。彼は本当すぎる。ネタだと割り切れていないのか、戸惑った、変な顔する。利用できるものは利用しちゃえばいいのに。もどかしい。切なくってたまらない。

ああ、そうだ、ホリケンってずっとなんか、切なかったんだな。

「ホリケンのみんなともだち」(2022年3月9日放送回)にAマッソが出たときに、確か加納さんが「ホリケンさんの夢ってなんなんですか」といった質問をしていた。ホリケンは、妙に落ち着いた顔をして、「大きい夢がなくなって小さい夢がいっぱいある感じかな」と答える。村上さんがさらに食い下がり、「そのデッカイ夢はなんですか」と問い、ホリケンは「デカイ夢はもう叶えられないんだ」とぼそりと答える。「歳も歳だから」と付け加える彼に、加納さんは「諦めた夢はなんですか」とさらに詰め寄る。ホリケンはしばらく悩んで、「ネプチューンで、ネプチューンだけのお笑い番組やること」とぼそりと口にした。

画面を見ながら、思わず叫んでしまった。そうか、これが「夢」だったんだ。そうだよね、そうだったよね、と思った。そして、それを彼は静かに諦め、叶わない夢としておさめていたのだった。

2008年、ネプチューンは『おひつじ座の巻』というALL新作コントDVDを発売している。テレビの焼き直しなんかじゃない、全て撮り下ろし。オールセットで、三人の原点回帰として銘打たれた作品集であった。その当時いくつかのテレビ雑誌に彼らのインタビューが掲載されて、私はその全てを購入した記憶がある。当時すでに「笑う犬」シリーズは2003年に終了していて、テレビで彼らがコントをできる環境は無くなってしまっていた。司会業やコメンテーター、原田泰造は俳優業がメインになる中で、その流れに争い、「お笑い」の根本に再度向き合うという意味で、彼らにとって一世一代の挑戦だったのではないかと思う。

そのDVDは、大きな話題にはならなかったけれど、テレビタレントに収まらず、コントに、「芸」に回帰する三人の姿勢が、私にとっては泣くほどうれしかった。だが、そのDVDをみて、高校生の私はショックを受けた。私はその作品をみても、全く笑わなかったのだった。

SNSもなく、周囲にネプチューンを追いかけている人もいない中で、私に合わなかったのか、その作品の笑いとしてのクオリティに問題があったのか、判別のしようがない。しかし、私が笑わなかったということに、他ならぬ私自身がショックを受けた。私は笑いたかったし、三人に「面白かったよ」って言いたかった。私は無理して笑おうとしていた。せっかくの大好きな三人の原点回帰の「芸」が、笑えなかったなんて、一生私は引きずってしまうから。私は必死に笑った。そうして、見終わった後、胸が痛んだ。インタビューには「これから続編なども出して精力的にコントに挑戦していきたい」と語られていたと思う。見終わった私は「もう、次の作品は出ないかもしれない」と、幼心に思った。その気づきがさらに深い傷として刻まれた。

私が彼ら三人を追うことがなくなっていったのは、彼らを見るとそのことを思い出して、痛々しくって、切なくってたまらなくなるからかもしれない。

「あちこちオードリー」に戻ってみたい。若林は「今もまた(ネプチューンの)三人でネタやりたいとか思わないんですか」と、これまた彼が好きそうなことを彼に聞いている。一体彼は、今、どう答えるのだろう。

もともと俺たちは、ネタはテレビに出るための手段だから。ネタをずーっとやりたいって感じじゃなかったから。…やらなくていいならいいやって感じが三人ともあると思う。

ホリケン「あちこちオードリー」内での発言

私は、「嘘つけ!」と叫んで、彼を睨み付ける。どういうことなんだ。テレビに出るための手段だった、そんな程度で原点回帰とかいって撮り下ろしのコントDVD出すかよ。ていうかそんなこと言える程度だから私を笑わせられなかったんじゃない?二作品目、三作品目でも待つから、どっかで私を笑わせてほしかったよ。

「どれだけバラエティタレントになっても芸人たるものネタを磨いていきたい」ーー「THE SECOND」の影響もありそんなようなセリフが歓迎されている風潮の中で、ホリケンはしらけるほど本当のことを、正直に答えて、ちょっと変な空気になって。若林が食い下がって「でもファミレスでノート広げてネタ考えているって聞いたことありますよ今でも」と水を向け、「単独ライブの予定はないのに」と若林が笑いで落とし、ホリケンは苦笑いして。なんて徹頭徹尾、切ないのだろう。

でも、これがたまらないのだが。どれだけ胸を痛めても、どれだけ裏切られてきてもなお、なぜか彼に対しての期待をやめられないことが、29歳の現在の悩みである。

サポートいただいた分で無印良品のカレーを購入します