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痛々しい大人にならないために。

最近悪目立ちする大人が増えている。もちろんコレにはジェンダーを超えた、確証ある”証拠等”が必要だが、手っ取り早く言えば、メディアに露出する機会が多い「男」には、美的センスで疑問符が湧くことは個人として感想として持っている。少なからず、こういった男達が世間で受けられている以上は、何らかの共感を得ているわけなので、比喩として取り上げたところで、所謂、炎上となるのは火を見るより明らか。

しかしながら、男という性別一つから、それをある種持ち上げる異性というのも、少なからず影響を与えているのは言うまでもないだろう。だからこそ、今一度再考して取り上げてみることは、多くの世代にとって、将来の生き方に関して一塊の物差しとして参考になるのではないかと一筆、そう考えたのが今回である。

・70歳を超えてまだ少年の様というのは見苦しい

マニアックなビンテージカー、アメリカンカジュアルに、米国仕立てのミニタリー、モデルガン、ラジコン、それに加えて家庭菜園・・・・・若い芸人時代は司会にタレントに大忙しで、稼いだ金を惜しみなく趣味に投じても、それを楽しめなかった熟知たる思いから、老齢でそれを謳歌するのは致し方ないだろう。しかし私には、それが今どきの青年が夢中になる、最近やけに市民権を獲得したオタク文化に通じるものがあると思う。

オタク文化とは、要するにコレクション、「モノ集め」に終始する。優れたもの、珍しい、貴重、そういった価値観の定める数々のアイテムに対して、憧憬を持ち、収集して眺める日々というのは、確かに楽しそうではある。そこは否定することは避けたいが、楽しそうであるのと、楽しさを感じるかどうかは全く行動として違うのである。

人によって趣味は様々だが、私で言えば物や環境ではなく、私自身をどうするか?という根源的なパーソナルの洗練と感受性の追求となる。つまり、物事を如何に合理的に、合点の行く納得ある形で自分らしい美しさを追い求めるのがその趣旨であるが、その目的のために自分を磨くという事が非常に大切な事として日々を送っている。

これは傍から見れば楽しそうには見えることはない。しかしそれだけにこの世で唯一無二で最大の面白さがあると私には思えてならない。

芸能人であれば、その表現は視聴者に対しての表現である。だから、その趣味もやはり人に見せる、自慢するという事が、その趣味を続けるモチベーションにもなりうるだろう。音楽、楽器演奏しかりだ。それは私にも経験があるし、実際、それが普通という時期も確かにあった。過去形なのは、そういった過去の自分はガラクタだったと今は思えることである。まぁ要するに、テレビで時々噂に登るゴミ屋敷の主人と私は近かったということだ。

無論、貴重な品々、自動車や様々なアイテムは、事実高額で売買されているから本当のゴミ屋敷ではない。しかし、「納得ある形で自分らしい美しさを追い求める」という今日の私の感覚からすれば、持ち物をただ増やしているに過ぎない。これは、自分の感性が仮に今の自分で過去に戻ってそれを眺めれば、どうしても邪魔なものだ。

何かを集めることによって悦に浸るというのは、それはそこに、その場所と出来上がった環境を作り上げたという人生の準備段階にまだ居るだけの話なのである。つまり私には、旅をするのに道具やお金は必要がなく、旅の楽しみは日常の中から出立して、なんでも無い景色ですら、物珍しい光景として楽しめる感性が育ったという、それらとの違いがあるからだ。これは衣食住にも通じていて、私は自分が必要と思うものを自由に生み出せるまでに磨いてきた、そういう結論に至ったわけである。だから、私は楽しそうに見えるかどうかは論外の話になった。

・若いうちに削ぎ落とすと結末は惨めだ

今思えば、過去を振り返って私はこれまで苦労したという自覚が何度も心をよぎったが、今一度振り返ると随分人様より楽な生き方を選んできたと思う。一つは社会に出て、人様から褒められる、名前を呼ばれて活躍を期待される、こういったワクワクと心が躍る経験が多少あったからだ。その余白に、パワハラや誹謗中傷、妬みや意地悪が傍らにうごめいていたに過ぎず、結論としては自由に好きな事を仕事にしてきたわけである。

好きな事を目指しているのと、好きな事をやり終えたというのは、大きな違いがあるだろう。前者はまだ途中であり、何がそうだったかは結果を見るまで続けなければならないが、後者はピリオドに到達した状態だからだ。もっと言えば前者は頑張りこそ至上命題でそれが美徳だが、後者はその経験が既に思い出として昇華しているともいえる。だから取捨選択する段階として、私は嫌な過去は整理して抹消してしまっている。捨てた分、心に余白があり、次の段階に移行できるが、必死でがむしゃらに働いていた時代は、こうはいかない。

時間は有限というが、私はそういった陳腐な話題は興味も関心もない。そもそも、どうせ200年も生きられるはずないので、決まった時間というのは時計ではなくて自我の体の問題に過ぎないだろう。だから私は自分の肉体に今の状態を尋ねるような意識の上に、健康が重なる。そう思えた時、食べて美味いという感覚はやはり違ってくるものである。やはり人様の作った如何なるものも、逐一評価して食べて満足するものではなく、食という大切な時間は自ら管理してこそ、季節や天候、時代を雰囲気ではなく実感として味わえるものだ。

ところが、この頃の世間はやけに煩く、また、拘り、飽くなき発見とやらを愛でている。加えてスローガン好きだ。しかるに、だからこそ年齢を重ねて今更なのと、申し訳ないが滑稽に見える。若い自分からスマートやシンプルに過ぎてしまうと、削った分、余裕が薄れる。物事、感覚を世間一般に合わせながら、やれ繋がりだ、やれ安心・安全だと準備段階で次々制約やルールで縛れば、それだけ心はギリギリに追いやられるものだ。

私は墓参が好きで、赤の他人の墓をよく拝見するが、昭和から令和まで、死者は原因を問わず0歳からどの世代も漏れずに亡くなる方が静かに土中に居るのがわかる。私は偶然にも、まだその中には含まれていないから、こうして眺める事ができる。たまに同年齢を見ると、不思議な思いに手を合わせることもある。

シンプルに生きようと豪盛に人が羨むような暮らしであっても、結論は同じであるというのは、この墓参ではっきりと手に取ることが出来るのだ。「お前は必ず死ぬ。」。今の若い方に私は、もっと「自分と話をしろ」と言いたい。確かにその役割として、やるべきこと、立場や仕事上、そうせざるを得ない場合が多い、しかし、それでもだ。

自分以外で他人、いやこの社会で生きる中で、焦り、いらだち、様々な事が心をよぎったとしても、あなたと人間として別人格の私にはわからない。つまり君らの普遍的な、信じるに値するという感性とは、君の個性では決して無いということを忘れないでほしい。人は心の中まで覗き見ることは永遠に出来ないものだからだ。しかし君もいつかはこの世から居なくなるのは私と同じだ。

この期限付きのかなり強引なゲームのルールという社会においても、他者の作った思想や哲学について行ってはいけない。若い時の努力や苦労、それは必ず整理しなければならない年齢に達した時、「お前に何が残っているか?」が、その人間の真価をハッキリと示してしまうからだ。その時、君の価値は過ぎ去った栄光であるなら、光を失った老後というこの世の末路が待っているだけとなるだろう。もはや手遅れだ。一生涯勉強?とんでもない。

年老いて新しい事を吸収できるほど、人間は器用な生き物ではないからだ。

繰り返し自分に問いかけて頂きたい。若い君にまだ時間はある。今までのガラクタを捨て去らねばならない、そのときが来た時、君は自分の体から「お前の価値はなんだ?」と問われるからだ。それまでに、何が美しく、何が素晴らしいかを知っておいた方が、安らかな彼岸を私はきっと送れるだろうと思う。

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