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映画『バーニング』に登場する村上春樹的題材とその差異に関するメモ

※1  イ・チャンドン監督『バーニング 劇場版』の内容、村上春樹既刊作品の内容に触れています。
※2 2019年2月に書いた原稿に、2019年6月7日
、あらたに追記しました。項目「父殺し」の※2以下です。追記の典拠あるいは発想元は、5月刊行『文芸春秋』掲載、村上春樹「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」です。

 『バーニング 劇場版』(イ・チャンドン監督)の原作は村上春樹の短編「納屋を焼く」である。二時間半もあるんだけど、ぜひ観てほしい。そう言われてびっくりした。「納屋を焼く」? 2時間半も? 焼きすぎでは? と思った。薄手の文庫本の、さらにその一部でしかない、ごく短い小説だからだ。書籍のタイトルだって『蛍、納屋を焼く、その他の短編』である(まったくの余談ですが、私は『○○、××、その他の短編』という昔ふうの短編集の名づけがすごく好きです。かっこいいと思う)。

 首をかしげながら二時間半、『バーニング』を観た。そうしたらたしかに「納屋を焼く」だった。同時に村上春樹のさまざまな作品を取り入れて、それをどういうわけか新作の韓国映画にしているのだった。どういうわけかわからないのは私が映画というものをよく知らないからである。私にわかるのは主に小説のことだ。長く書いている作家にはしばしば固有の題材がある。村上春樹のそれはとてもわかりやすい。『バーニング』劇場版にはそういうのがたくさん出てきた。映画の中では意味がちょっとずつずらされているのもまたおもしろいと思ったので、あわせてメモした。なお、このメモに書いてある『バーニング』および村上春樹諸作品に対する解釈はすべて私の妄言です。誰にもひとつもオーソライズされていない。それから、元の著作をあらためて確認していないから、記憶違いがあるかもわからない。


泥臭い主人公

 村上春樹の、とくに初期の小説の主人公はだいたいあんまりお金がなくて、泥臭い造形だ。ぼろぼろの靴を履いていて、代わりの靴を買って、靴屋さんに「汚れてもかまわない靴が一足あるのはとてもいいことですよ」というようなジェントルなせりふを言ってもらう、たとえばそういう人物である。原っぱで女の子と寝てたりする。なお、この原っぱの所在地は西新宿と書かれており、私は「おっ、いつものマジカルなやつだね」と思って読んでいたのですが、小説が書かれた当時はまじで原っぱがあったらしいです(村上春樹は基本的にリアリズムの作家ではないです。その世界では「やみくろ」が地下をうろつき、かえるくんが人知れず地震を止め、動物園では象が消滅し、空から魚が降り、家に帰ると知らない男が完膚なきまでに部屋中を破壊してにやにやしながら待っています)。

 『バーニング』ではそうした泥臭さがより鮮明に、攻撃的なまでに強く提示される。村上春樹の小説を読むと文体の美しさで人物が脱臭されているように錯覚する(でもよく読むとすごく泥臭い)のだけれど、イ・チャンドンの映画のほうはぜんぜん脱臭する気がない。私は主人公と女の子(後述)の家の中にあった布という布をぜんぶコインランドリーで丸洗いしたい。ふっかふかに乾燥させてやりたい。
 つまり、村上春樹初期作品に出てくるのは何らかの希望のようなものがある貧しさで、かつそれをスタイルで覆っている。イ・チャンドンが描くのはひたすらに閉塞した貧しさで、しかもそれは他者への恨みに満ちている。

金持ちの青年

 元ネタは言うまでもなく、フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』、村上春樹新訳『グレート・ギャツビー』だ。主人公の泥臭さをぜんぶ抜いた、金持ちの、つるりとした容貌の青年。額に汗して働いていない、正体不明の札束で磨き上げられた青年。これも村上春樹作品に頻出する。彼らはもちろん強い虚栄心を持ち、同時に自分の虚栄心にうんざりしていて、でも資本主義とそこに流通する消費用の記号のほかに頼りになるものを持たない。村上春樹の小説ではこの「ギャツビー」たちが多様な側面を見せる。たとえば内面を吐露する役回りになったりもする。
 イ・チャンドンの映画でもこの金持ちの青年(ベン)は主要な登場人物の一人だけれど、彼には内面がない。虚栄心と虚栄を憎む感情だけでできている。主人公のための反転鏡のような造形だといえる。またベンは「金持ちの青年」とは別の役回りも兼ねている。

自由な女の子とわからない女の子

 どういう人間であっても、生に向かう欲望と死に向かう欲望の双方を持つ。この二方向の欲望を仮託して夢をまぶしつけた造形の女の子たちが、村上春樹作品にはよく出てくる。私は「その女性像はどうなんだ」と思う。女が人間ではなくて、象徴と夢にすぎないから。でもそれはここでは措く。措いて、二種類の女の子という村上春樹的図式を確認する。主人公を生きる側に引っぱる役が自由で元気な女の子、主人公を死の側に引っぱる役が理解を拒む謎の女の子である。そして謎の女の子のほうはだいたい突然いなくなる。この二名は別の人物として描かれる。片方のタイプの女の子だけが出てくる作品もある。
 しかし映画版はちがう。同一人物(ヘミ)が両方の役をやるのだ。
 私の個人的な感触では、大雑把にいって、登場してアフリカに行くまでのヘミが「自由な女の子」、ギャツビー的な男(ベン)と戻ってきてからのヘミは「わからない女の子」である。彼女は分裂している。片方がもう片方を夢見て、夢見る主権を奪い合っている。私はそう思うんだけれど、そうなると「わからない女の子」がけっこうわかる子になっちゃうなあ、とも思う。カードの借金を大量に作って金持ちの男にまとわりつく女の子って、ぜんぜん理解を拒んでない。それしか残されていないと言い放つ絶望した「ゼルダ」(フィッツジェラルドの妻)だ。女の子は美しいお馬鹿さんになるのが幸せなのよと言った、美しくてばかではない、可哀想なゼルダ。

暴力的な男

 村上春樹作品の暴力はとにかく陰惨だ。人間は動物だから、暴力をふるったらすっきりするので、バイオレンスというジャンルがあるのはそれを擬似的に味わうためなんだけれど、村上春樹作品の暴力にはそういう愉快な機能はゼロだ。もうとにかくいやなものとして描かれる。なぜかといえば村上春樹作品で暴力を振るうのは常に「他者」で、主人公と読者は暴力を振るわれる被害者の側だからだ。主人公でない側、読者でない側、徹底的にコントロール不能で対話不可能な、ひたすらに厭わしく強靱な、何か。それは必ず壮年の男の姿をしていて、主人公やその周囲に対して呪術的な影響力を持ち、無力な彼らを残忍に切り刻む。それは悪い神であり、主人公はその神から目をそむけて生きている。けれどそんなことが長く続くはずがない。
 ーーというのが、今まで出た村上春樹作品の前半までの特徴で、最近の村上春樹作品ではこの「暴力的な男」が卑小さや現実的な醜さを獲得する(私は『1Q84』を評価しないが、この「暴力的な男」として牛河という人物を造形し、また本人は直接的な暴力を振るう力を持たず組織の名で他人の家に侵入する卑小な父親を配置したことだけは素晴らしいと思っている)。言うまでもなくこのイメージは父親なるものだ。映画版では卑小で現実的な存在としての父親がこの役回りをやる。それもすでに暴力事件で警察に捕まっていて、主人公やその周囲に対してまったくの無力、なんなら主人公が保護してやらなければいけない存在だ。これはけっこう大きな違いである。村上春樹作品の無力な父親なんて、死ぬ直前の姿くらいのものだ。

 猫が生きていればだいたいOKである。村上春樹作品における猫はそういうものである。彼の作品において猫は吉兆であり、また地に足の着いた生活の象徴でもある。この「猫」に相当する人間のキャラクターを作ろうとしているように見える作品もある。
 映画版における猫はしょっぱなから姿が見えない。村上春樹原作の映画で猫の姿が見えないのだから、もう完全にBAD、この映画は相当BADなところからスタートします、というメッセージだ。

 人間は、自分自身の処理しきれない感情、あるいは抑圧した感情に対して、「からだの中に何か異物がある」と感じることがある。だいたいは硬いものとして感じるようだ。村上春樹作品における石はこれに似た表象である。しかし、必ずしも悪いものではない。ふだんは意識がアクセスしていない、自分のふだんの姿とは異なる何らかの領域がたまたま手にとって触れることができる状態になったもの、それが村上春樹的な石である。見た目は希少価値があるような石ではなくて、そこいらの河原にありそうなやつだ。でも主人公にはそれが自分にとって特別なものだとわかる。自分に属するものだとわかる。石は女の子や暴力的な男や猫に比べたら地味な題材だけれど、私はこの村上春樹的石がとても好きだ。
 映画版ではこの石がたいへんいやな使われ方をする。「冗談のひとつとして引きずり出されて、そのまま持ち主から離されてしまう」のだ。一見なごやかな雰囲気のなかで、誰も傷ついていないような場面で、激しい言葉も暴力もなしに。私はこの場面にひどく感じ入った。すごい場面だった。

ナイフ

 誰が描写したってナイフは武器としての意味を帯びるけれど、村上春樹作品におけるナイフは「遊戯として獲物を切り刻むもの」さらに「それをされるのは主人公の側」というものである。映画版のあの人物が美しく研かれたいくつものナイフを持っているということは、つまりそいつは「暴力的な男」、悪い神なのだ。映画版では少ない登場人物が村上春樹作品のいろんな役回りを兼任しているので、二時間半を長いと思った私が悪かった。よくもまあ二時間半で済んだものだ。

電話

 村上春樹作品で電話のベルを鳴らすのはだいたい異界の者である。ファンタジー的な異界として描写される場・人物からにかぎらない。いわゆるリアルなタイプの小説でも電話は「外側」からかかってくる。電話の向こう側にいるのは主人公の知らない背景を背負った誰か、あるいは主人公の知っている人物だけれど、主人公が知っている要素がほとんど残っていないような状態の人間である。そこには距離があり、秘密がある。主人公が電話をかけるのは「外側」にある誰かを引きずってこようとするときだ。それはたいてい失敗する。
 映画版では(舞台が現代だから)登場人物たちがスマートフォンを持っている。金持ちの青年・ベンのかける電話はばんばん通じる。もう出てくるたびに電話をかけている。一方、主人公の電話はぜんぜん通じない。かろうじて通じた途切れ途切れの通話は要領をえない。でもそれすらもましなほうで、映画が進むと、かけた電話はひたすら呼び出し音が鳴るだけ。かかってきた電話は取ったとたんに切れる。何度も何度も切れる。後半で電話を取って話す場面では「異界」がにょきっと出てくる。文字どおり出てくる。あれはけっこうホラーだった。

失踪

 村上春樹作品の主人公の親密な人物はとにかくすぐいなくなる。私は覚えていないくらい昔から「人は突然、何の前触れもなくいなくなるものだ」というオブセッションに取り憑かれているので、フィクションの失踪もむさぼり読む。村上春樹を読み始めた高校生の時分には「しめしめ、この作家はよく人を失踪させるようだ、もっと読もう」と思った。長編の主人公の伴侶はしばしば失踪するし、主人公が親しく話す男も失踪するし、一度会った人物をもう一度たずねたら煙のように消えているのである。建物ごとなくなったりもする。
 映画版でももちろん失踪する。映画の前半の失踪描写の雰囲気は村上春樹初期作品の色彩にきわめて近い。後半はそうではない。

自分で作る料理

 村上春樹作品の主人公は自炊が身についている。料理を「してもらうもの」と思っている者がいない。私にとってはイデオロギー的に相容れない部分がある作家だけれど、この点は評価する。なにしろ二十一世紀も十九年目の今でさえ、「掃除と洗濯はしますからどうか手料理を食べさせてはくれないでしょうか」と言う男性がいるのである。能力としてできないのではない。料理に(女、もしくは愛、さもなくば家庭、あるいは母親、実のところそれらのアマルガム「男性たる自分が受け取るべきであるもの」に対する)最後の幻想を見ているのだ。ばかか。ばかだ。完全に愚かである。
 驚きや非日常的な喜びやコストパフォーマンスを求めるのでない日用の糧ならば、多くの大人にとって作成可能である。切って、生でだめなやつを加熱して、味をつけて、自分の食べたい味を、食べたい量だけ作る、それだけのことである。ガラケーからスマートフォンに切り替えるくらいの学習コストしか要らない(そこにディバイドがあることは否定しない。でもいちばん大きなハードルは「プライド」である)。相対的に安価に自分が食べたいタイミングでそのときに食べたいものを食べようと思う、そうしたら自炊をする、それだけのことである。やりたくないなら単にめんどくさいか、「外でも食べられるから、わざわざするほどのことでもない」と思っているか、さもなければ女に対する幻想の牙城にしているか、どれかである(自分の味覚すら把握していないなら、それは幻想の女だか母だか家庭だかに「管理してほしい」からである)。そんなもの四十年前に村上春樹が捨てているじゃないか。あんなにも女を幻想の器にした作家なのに。
 そんなわけで村上春樹作品の主人公はやたらとパスタをゆでている途中で電話を取るのだが、これはまあ自然なことである。米は炊いたあともしばらくはうまい。電話がかかってきて困る主食といえばパスタと蕎麦だ。そして長野県民でもなければだいたいパスタのほうをよく食べているでしょう。蕎麦は水で締める手間が加わるし。
 そんなわけで村上春樹作品のパスタはわりと読み流してきたんだけど、イ・チャンドン『バーニング』の主人公の自炊と金持ちの青年が作るパスタには明確な意味の差異がある。前者は名もなき土着の自炊であり、後者は名のある「料理」である。「パスタ」だけではもはや名ではないので、ちゃんと説明が入る。「自分が思うとおりに作って、自分で食べる」。プライベートの最後の聖域である。その聖域を他人にふるまう。プライベートを他者にあけわたす自己蹂躙のようであり、外部の受容のようであり、権力の行使のようでもある。人物造形から考えたらいちばん最後のやつの割合が高い。そこには薄暗い孤独と、手仕事によろこびを見いだすことが難しくなった資本主義社会における強者のいじましい工夫があり、刃物をもって切り裂き火を使う暴力性がある。そういえば『バーニング』の「彼」は女に化粧をするのが好きですが、あれも手仕事であり、かつ、他者の所作を奪うものですね。

井戸

 村上春樹の小説のもっとも重要なメタファー。内面であり、他者との境界であり(内面を掘り進めたら自己と他者の境界にいきつく、そういうのはたぶんみんなわかると思うんだけど、たまに掘り進めなくても他者との境界線があやうい人がいるので念のために書いておく。地面を歩いていたのに地上がそのまま井戸に通じてしまう恐ろしい現象が恋愛です)、世界との接着点に近接する運動であるもの、それが井戸である。ほかに「壁を抜ける」というのもあるんだけど、これはどちらかというと不意に他者の領域に連れ去られるとき、あるいは意図せず突然に何かを理解してしまってそこから戻れないような体験のメタファーです。
 壁のほうは映画には出てこない。井戸が出てくる。もうばっちり、そっくり、そのまんま出てくる。こりゃああれだね、と思いきや、「それは嘘だった」というどんでん返しがある。井戸に落ちたというのは虚言だ、という。二十一世紀では井戸的体験の語りもすでに陳腐化していて、虚言に回収されるということかな。
 あと主人公が井戸に潜らない。村上春樹小説においては井戸にもぐるのは主人公なんだけど、イ・チャンドンは主人公を井戸に潜らせず、「わからない女の子」だけを潜らせた。たいへんなことだ。

父殺し

 村上春樹の小説に母はいない。父だけがいる。そして父は否認すべきもの(作者が若いころの作品)であり、やがて殺すべきもの(比較的近年の作品)である。
 父の強力な側面は多くの作品で「暴力的な男」として描写される。主人公はそこから逃れて自分で自分のささやかな生活を作って猫を飼って女の子と寝てOKになるんだけど、逃れきることができない。逃れようと思っているうちは逃れられていない。それは追ってくる。それと対決する世界を作ろうとしてもうまくいかなくて世界が割れて終焉を迎えたり(私のこの作家のオールタイム・ベスト『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)、少年に戻って対決しようとする(私が三番目くらいに好きな『海辺のカフカ』)。最終的に父親はただ年をとって死ぬ(この死んでいく父親と「暴力的な男」である牛河という男の造形のほかは私はあんまり評価していない『1Q84』)。
 映画版の主人公の父親は映画の中で口をきかない。『1Q84』の見舞いの場面、老いてろくに意識もなく横たわっている父親のごとくに無力である。でも「暴力的な男」をやった過去がある。自分が正しいと思ったら人を殴るような男で、「プライドが高いから」謝ることができない、それで黙って裁判を受けている。主人公は父親の残した牛を(牛を!)世話してその譲渡先を探し、父親の罪が軽くなるよう証言を集めてまわる。
 この映画版の父親は巨大な悪神ではない。時代だとか規範だとか規範に見せかけた横暴な既得権益だとかダブルバインド的な愛だとか(ダブルバインド的な愛については多くの場合「母」という表象に託されるんだけど、村上春樹の作品に母はいない。その役割は分散されて同世代の男か女がやる)、そうしたものを包含する「父なるもの」ではない。もっとずっと卑小なものだ。主人公よりずっと弱いものだ。だから主人公が殺す相手ではない。殺されるべき権力は別の男に託されている。この役をあの役とくっつけるのかあ、すごいな、と思った。そんなのまるでワタナベ・ノボルの進化形じゃんねえ。

 ※2
 小説は小説、事実は事実だ。作家自身が語ったことであろうと、事実として記述されたエッセイと小説は別の世界にあるものだ。けれども、読者が村上春樹作品の父親像についてあれこれ考えごとをするための題材にするぶんにはかまわないだろう。
 村上春樹のエッセイ「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」には、実在する人物としての父親が語られている。彼が甲陽学院という中高一貫校の国語の教師であったことはわりに有名な話らしく、関東者の私も二度ばかり聞いた。卒業生が語る母校のエピソードとしてちょうどいいのだろう。
 イ・チャンドン『バーニング』における父親像は暴力的で卑小かつ現実的で、村上春樹作品の「父親なるもの」が零落したような塩梅である。けれども村上春樹作品の「父親なるもの」「悪い神」と、このたびのエッセイで語られた実在の人物としての村上千秋氏(村上春樹の父親の名前である。美しい名の並びだ。千秋と春樹)にはかなりの乖離があった。
 村上千秋氏は学究肌の温厚な人間であって、少なくとも春樹少年が春樹青年になるくらいの間は父親としてまっとうに機能しており、「悪い神」としての側面は見受けられない(ただし、村上春樹は父親と疎遠になった三十代以降の話はこのエッセイでも避けている)。村上春樹作品における「父親なるもの」としての要素も、どうやらあまり強くない。強いて言うなら『1Q84』の見舞いの場面は体験がほぼそのまま描かれているようで、だからあのさえない小説の中であんなに鮮烈だったのだ、などとと言うつもりはないが、「高齢になって弱って病院にいる状態」が父子の仲の落としどころだったというのは、エッセイからも読み取れるところである。
 村上春樹作品の「父親なるもの」は、父親というより、(父親が世代として属する)戦中派だったのではないか。戦争を経験している世代とそうでない世代の対立は文学でもよく描かれてきた。文学という共通言語さえもこの親子の橋渡しをしなかった、もっと妄想を広げるなら、共通言語があるからこその断崖が、彼らの間にあったのではないか。ナカタさん、陸軍中野学校、皮剝ぎボリス。
 イ・チャンドンは韓国の人だが、村上春樹とほぼ同世代である。そこには別の世代の人間にはわからない何らかのつながりがあるのだ。しばしば村上春樹作品の特徴として語られるような都市の感覚であるとか、「やれやれ」みたいなやつではなくて、生々しい暴力の気配と、それに対する怯えのようなもの。もっといえば「お父さんが戦場に行った」ということ。兵たちは凄惨な戦場から戻って子をなし、子は彼らの持ち帰った暴力と死を直接に手渡され、それを生涯手放すことができない。どうやらそういう図式のようである。
 村上春樹作品においては、父親なるものが巨大な空洞として機能している、と私は認識していた。このたびのエッセイでその空洞性に対してある程度の納得がいった。けれども、小説家という人種はそんなにも率直になるものだろうか? いくら自身が年をかさねて後進のための著作を多くものするようになったとはいえ、読者に対してそんなにも図式的な情報開示をおこなうものだろうか? もちろん妄想にすぎないが、村上春樹は空洞の中心としての父親なるものについて一定の解釈を許す素材を提示することで、真実の中心を隠しているのではないか?
 イ・チャンドン『バーニング』に登場する主人公の母親は離れて暮らす子どもにカネをせびる卑小な人物である。母親というより「だめな身内」だ。母親像とはいえない。
 村上春樹作品の主人公に母親はいない。

ダンス

 資本主義社会の虚栄を憎み、静かな生活と個人的な感情を尊び、しかし一方で「ギャツビー」的な、札束で磨かれなければ完成しないある種の文化を体現した人間にどうしても心ひかれてしまう。素朴と野生だけを愛して生涯を終える気はまったくない。しかしそれ以上にバブル経済的な思慮と恥じらいの欠如を強く憎む。
 お金と美意識にまつわる村上春樹作品の立ち位置は、まあこんなところです。そんなに珍しいものではない。妥当なところです。多数派といっても差し障りない。私たちは札束だけで生きることはできないし、換金不可能な内面のみで生きることもできない。ではどう生きるのか。それを示す小説が『ダンス・ダンス・ダンス』(私の選ぶ村上春樹作品ランキング第二位)です。お金をじゃぶじゃぶ使う得体の知れない連中、置き去りにされ特別な場所に引きこもる古い存在、置き去りにされても平気な顔をしている子ども。それらが示すのは、資本主義の快楽とそうでないもののいずれかを選ぶことは不可能であること、そのなかで生きるためには「踊る」しかないこと。きちんとステップを踏んで、固まってしまったものを少しずつほぐしながら、竦まないで、ベストを尽くして、みんなが感心するくらい上手に踊らなくてはいけない。そうしなければ資本主義社会で心をもって生きていられない。ーーうん、いま思い出してもいい話ですね。
 映画版でのダンスは「自由な女の子」と「わからない女の子」の双方をやっているヘミの踊りにとどめをさす。なにしろ一人二役だから、資本主義社会の人間に迫り来る複雑さや激しい変化をステップし、越境しまた越境し、ぎりぎりでコントロールする「ダンス」の担い手として完璧。非常に原作に忠実な意味合いの「ダンス」だ。ヘミがそれを拾ってきたのはアフリカ、すなわちヘミは一度自分の力で世界に接続し、そこから何かを持って帰ってきて、それを披露している。けれども、その美しいダンスを披露する文脈は(少なくとも一回目は)、一文なしが退屈した金持ちの耳目を引くための余興だ。とてもさみしい。

【何か思い出したらまた書きます。
 2019年2月20日、「自分で作る料理」「井戸」「父殺し」「ダンス」を追記しました。2019年6月7日、※2として、「父殺し」を追記しました。】

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