逃げた女と逃げなかった女 山田詠美『つみびと』
山田詠美の直木賞受賞は1980年代終わりで、1977年生まれの私の世代にとってはひとまわり年長のお姉さんといった役どころの作家である。私は思春期のころ、この作家を色っぽい年嵩の従姉のように思っていた。当時彼女は外国人との恋愛小説をよく書いていて、だから私たちは彼女をエイミーと呼んでいた。たまに実家に帰ってきて旧弊な親族にやいやい言われてへらへら笑っておじいちゃんの秘蔵のお酒を飲んでいる、いつも派手な格好でおそろしく聡明で実はかなり子どもが好きな、人気者のエイミー。
彼女が大阪の児童虐待事件をモデルにした小説を新聞で連載していると聞いて、私は驚いた。彼女はとうの昔から国語の教科書に載っている文豪であって、キャリアのためにリスクを取る必要はおそらくなくって、そうして恋愛ものと同じくらい家族ものの小説を得意としてきて、彼女が描く家族は(突発的な事故やアルコール依存症の問題が差し挟まれるにせよ)愛に満ちていたからだ。家父長的な暴力とそこから派生する女たちの暴力を描くのが似合う作家ではないからだ。
つまり、私はこう思った。そんなのどうして書く必要があるのよ。だってエイミーは、男が女を殴らない家に生まれた子でしょ。エイミーは、自分の男や自分の友だちが誰かを殴ったら、さっさと逃げられる、そういう家に生まれた子でしょう。私は、あなたを好きだけど、男が女を殴る家のことだけは、あなたにはわからない。
エイミー自身をモデルにした小説家がその友だちから聞いた「男が女を殴る家」の話を書いて当事者からボコボコに叱られる話がある。『ひざまづいて足をお舐め』というタイトルの長編で、初出は1980年代終盤である。そのころからエイミーは、虎視眈々と「男が女を殴る家の話」を書こうとしていたのかもしれなかった。
なんとなれば家庭で発生する暴力は社会構造の反映であり、主に家父長制の長い長い尻尾がいくたりにも分かれて起きているものだからである。そうしてすぐれた小説家がそれを見逃すはずはない。だって、すぐれた小説家は社会や世界と直接に結びつく特別な回路を持っている。
私は『ひざまづいて足をお舐め』で小説家をボコボコに叱った側の人間だから、このたびの新作『つみびと』を読むときはだいぶ警戒していた。「ふうん、そお、それじゃあ、お手並み拝見しましょうかねえ」と思っていた。「このところ体調がいいから、ちょっと読んでみてもいいかしらねえ」と思っていた。読んでかつての愉快なかわいいエイミーに幻滅してもしかたないと思っていた。だって、小説家は、ほんとうは他人なのだもの。「色っぽい年嵩の従姉のエイミー」なんて、さみしい子どもだったかつての私の想像の中にしか存在しないのだもの。小説家は、生きていて、好きなように作品を書いて、私は、関係のない人として、それを読むだけなのだもの。
幻滅せずに戦慄した。本作を可能にしたのは綿密な取材ではおそらくない。綿密な想像である。本作の登場人物たちは大阪の事件の人物ではない。オリジナルの小説キャラクターだ。小説は時代をうつす。私は子ども二人をネグレクトした女(本作主人公)の母親に近い世代である。そうしてこの母親のモノローグは、まるで私のモノローグである。地域も文化もちがうのに、ぞっとするほど、そっくりだ。病は典型に回収される、とどこかの精神科医が書いていた。暴力もまた病であったのか。そして時代の暴力はあっけなく典型に回収されるものなのか。本作を読むとそうとしか思われない。
主人公の母親は暴力を振るう父親を軽侮する。七歳にして「弱い犬ほどよく吠えるという、その犬だ」と内心でつぶやく。弱い犬、すなわち、威張りたいのに外では威張れないから家庭で異様に威張り散らしその延長として暴力を振るわなくては立ち行かない男。卑しい、弱い犬。その犬に殴られる娘はこう思う。
この世は弱い犬のためにあるのか。
暴力を振るわれる者の選択肢はふたつだ。逃げる、逃げない。反撃の選択肢はそのあとにしかない。そして本作の主人公である年若い母親は、逃げなかった。逃げてはいけないと思って、逃げなかった。それはもちろん正しいことではない。
逃げた女親の代わりに「母親」役をして、仕事仕事の父親の言うことを聞いて、自分が子どもを産んだら「立派な母親」になろうとし、それがかなわなくても「自分の選択に反対した家族に迷惑をかけない」律儀さを維持し、幸福なことばかり話す友人たちの中にあってやはり幸福なことだけを話して、男社会の中でスキルがないから風俗をやって、つまり彼女は、規範を守った。それはもちろん正しいことではない。規範を守ることに無理がありすぎる中でぜんぶの規範を守ろうとして最初にはじかれた規範が「子どもから目を離さない」だった。
逃げたらよかったのに。子ども以前の女役割から、逃げて、そうして規範を問い直したら、よかったのに。
私が山田詠美を読んできた理由のひとつが、逃げることの肯定だった。山田詠美は逃げる女の側に立った話をたくさん書いてきた。結婚の規範から、子を持つことの規範から、女なるものの規範から、逃げる女の話を。でも彼女はついにそちらの側の罪をも暴きたてることにしたのだ。それなのに私は、本書を読んでも傷ついていない。題材から二重三重に傷つくことを想定していたのに、私の心は護られた。センセーショナルな事件にともなう覗き趣味や自傷の誘惑を蹴散らし、フィクションだけが公使できる魔法で、かえす刃のない刀で、ただその罪をあきらかにしたのだ。エイミーはやっぱり、やさしかった。私の架空の従姉、私の非実在の味方、本屋に行けばいつでも会える、私のエイミー。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?