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移動する者たちの抱える欠落の形 ナム・リー『ボート』

 いいご本を読んでいらっしゃる。ごめんなさいね、お邪魔して。わたし、こういう待ち時間、苦手なんですの。本を読んじゃうと、声かけられてぱっと動けなくなるたちなんです。年をとるごとにひどくなっていけません。それで、あなた、アメリカの小説がお好きなの、まあ、いいこと。ほかにはどんな作家を?うんうん、わかります、わたしも大好きです。あんなのまいっちゃうわよね。

 わたしも英語圏の文学をやっています。もう現役じゃあないんですけど。いやだわ、年齢が、ですよ、定年をとうに過ぎて、引退生活中ということです。あら、あなた、お仕事は文学ではない?文学を勉強されたこともない。そうなの、いいことです、好きなものだけ読めるんだから、すばらしいじゃありませんか。小説は、専門家だけが読んでも、しかたがないでしょう、小説は、いろんな人が楽しむものです。なるほど、翻訳しか読まない、うん、もちろんもちろん、それで結構です、どんどん翻訳を読んでください。英語ができない?そんなの気にされることありません。そのための翻訳というものです。

 わたしの専門が「英語圏の文学」という、その言い方の意味ですか。わたしは、アメリカやイギリスの文学を中心にやっていたのではないんです。そのほかの英語圏の、とくに移民であるとか、その子どもたちの書いた小説が専門です。

 アメリカ文学にも移民の作家がいるから、よくご存知ね。そうです。移動するたましいの話よ。あなたもこんなところにいるのだから旅行はお好きなんでしょう。もちろん旅行と移住はちがう、まして事情があって生まれた国を離れるのはもっとちがうことですけれど、でも世界には移動するたましいがあって、そのための小説があるのよ。

 そうねえ、あなたのご趣味なら、ナム・リーがおすすめです。ベトナムからオーストラリアに、うんと小さいころに渡った作家です。ボートピープルの子どもだった人です。『ボート』という短編集があるから、読んでください。そりゃあ、もう、すっごいんだから。あら、いま買うの?スマホで?

 版元になさそう?Amazonにも古本しかない?なんてことでしょう。まだ若い作家ですよ。ポートレイトは青年のようでした。あ、でも、わたし、『ボート』を読んだの、いつかしら、まだ現役のころじゃない。ついこの間の気がしていたのに。年とるとこれだから。そりゃナム・リーも青年だわ、原書の著者近影なんて、どうかしたら二十代だわ、そう、彼はあなたと同じ世代の作家のはずです。

 ええ、ええ、おっしゃるとおり、年齢にかかわらず、いい小説は頭の中の特別な場所にしまいこまれるから、時間の感覚はなくなります。いい小説というか、自分の中の、小説以外では決して満たされない穴と同じかたちをした作品はね。いい小説はいっぱいあるけど、そういうものはひとにぎりです。そしてそれは人によってちがう。でもたぶんあなたには合うと思うわ。

 もしそこまででなくっても、なにしろ文章がすっごいから、損はさせません。流麗な感じではなくて、繊細だけどごつごつしていて、とってもカロリーが高いタイプの文章です。

 あなたはたぶん、天国のようにやさしくうるわしい文章より、激しいエネルギーを乗りこなしているような文章がお好きでしょう。内容というより、文体についての話ね。そして技巧が感覚に追いついていないのもいまいちお好きでない。未成熟な美には絶大な引力があるけれど、あなたにとってはさして魅力的でない。あなたはデザートをパスしてでもお肉を食べる。なぜわかるのかって?そりゃあ、よく読む作家を何人か挙げていただいたら、ある程度はわかります。人間には好みのタイプというものがあります。えっ、ほんとうに食べ物のお肉も好きなの。いいじゃないですか、健康的ですよ。わたしは甘いものに目がなくて。

 あら、お迎えの車が着いたみたい。あなたのはまだ?そう、ご一緒できて楽しゅうございました。オーストラリアの小説、ほかにもとってもいいものがあるから、ぜひ楽しんでくださいね。よいご旅行を。

ナム・リー、小川高義(翻訳)『ボート』新潮クレストブックス

※  この文章はフィクションです。書籍は実在します。

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